下書きのまま、まだ公開していなかった記事がいくつかあった。
 それぞれの記事は「引っかかった」ネタとしてピックアップしていたものだ。それらを並べてみると、傾向というか共通点があることに気がついた。
 個別の問題としては少し違うことなのだが、背景や根底にある感覚がどこか似ている。
 それらをひとつにまとめてみよう。

 まずは、タバコ増税に関する森永氏の記事。
 森永氏の記事はけっこう好きで、名前を見かけると必ず読んでいる。テレビにもよく出演しているが、堅物の論客と論戦していると叩かれたりもしている。柔軟性のある視点はわりと共感できる反面、ときどき飛躍しすぎて批判されたりもするのだが。
たばこ1箱1000円にすれば財政問題は解決するのか / SAFETY JAPAN [森永 卓郎氏] / 日経BP社

 自分のライフスタイルと違うものを認める、つまりマイノリティを大切にするのが、豊かな社会の基本ではないだろうか。もちろん、嫌だと感じるやつがいてもいい。でも、「あいつは嫌いだけど、その存在は否定しない」というのが正しい社会のあり方である。

 だが、そうした発想ができずに、エスノセントリズムを振りかざして、自分こそが社会正義だとばかりの態度を示す人間が、ここにきて増えてきたような気がする。しかも、それに楯突く人間を袋だたきにするという傾向が顕著だ。こうした社会は病んでいるのではないか。

 たまたま、最近ではたばこが排撃の対象とされているが、やがて別のものが対象になることだろう。

 においのする人間を排除する、腹の出ている人間を排除するという動きは、既に本格化しつつある。さらに、例えば鼻毛が伸びている人間を排除する、ファッションセンスの悪い人間を排除するというように向かうのか。そうして、どんどん社会の規制の枠が狭められていくのは本当に幸せなのだろうか。

 この記事の前の方に、国民が皆禁煙したら、寿命が延びて医療費が増える……という仮定はかなり大胆だが、あり得る話だ。
 タバコ増税での試算では、税収が増えるというメリットを強調するために都合のよい面しか考慮に入れていない。実際には森永氏のいうように複合的な影響があるはずだが、それは考えていないのか無視している。そうしたロジックは、軽はずみにネットに犯罪予告をする、浅はかな人間と短絡的な点で同レベルのような気がする。
 マイノリティ(少数派)を排除するという発想と行動は、イジメと同じだ。
 「臭い」とか「汚い」といってイジメる子どもたちが現実にいるように、社会そのものがイジメの構図になっているように思う。
 もはやそれは「イジメ」のレベルというよりは「差別」なのではないか?

 次もタバコ増税に関連したもの。
タスポと車内アナウンスに共通する危うさ / SAFETY JAPAN [花岡 信昭氏] / 日経BP社

たばこ増税構想には、社会から厄介者扱いされて肩身の狭い喫煙派がなにも言えないであろうことを見越した政治的な知恵が働いている。いまや社会的勝者となった嫌煙派の声をバックに、本来は消費税論議をしなくてはならないのを回避して、当面をしのごうとする。その「政治的いやらしさ」を指摘したかった。

 ここでも、「勝者・嫌煙派 vs.敗者・喫煙派」という構図のもとに、趣味嗜好の分野にずかずかと入り込んでくる「管理社会」の危うさがにじんでくる。そこを突きたかったのである。

 論旨としては森永氏と同じだろう。
 格差社会といわれ、勝ち組、負け組というレッテルを貼られている昨今。テレビのバラエティでは、タレントを勝ち組・負け組に分けて対峙させ、負け組を笑いものにする番組が放送されたりする。そういう感覚は、弱いものイジメを助長しているようなものだ。
 テレビからインプットされる情報や風潮に、なんの疑問も持たずに染まってしまう人も少なくないだろう。洗脳とはいわないまでも、感化されているだろうことは想像できる。

 次は労働環境に関する記事を3本続けて。
サマータイムの導入はサラリーマンを苦しめるだけ / SAFETY JAPAN [森永 卓郎氏] / 日経BP社

 もし、どうしてもサマータイムを導入したいというならば、何よりもまず徹底して守るべきことがある。

 それは簡単なことだ。従業員に残業をさせたら、企業は100%残業代を支払うということである。そうすれば、上司は単なる付き合いでの残業を強要できなくなる。

 そもそも、残業をすれば残業代を支払うのは当然のことであって、わざわざここで提言をするのもおかしいくらいだ。その当たり前のことを、当たり前に実行できてはじめて、サマータイムの導入は意味をもってくる。

親、テレビ、誇示、ゲーム感覚、苦境…秋葉原通り魔事件 識者はこう見る(上)(産経新聞) – Yahoo!ニュース

 90年代から急速にこうした派遣業態は増えた。そして、企業側もモラルが崩壊し、「同一労働 差別待遇」という悪しき慣習の中で利益を上げてきた。労働組合もこうした差別的環境で働く派遣労働者を「無視」しており、ある意味企業と共犯だ。行政もこうした実態を知っていながら黙認している。若い人をみんなでいじめている状態だ。経済的に安定している若者が減ると、少子化に拍車がかかるなど弊害は大きい。日本の派遣制度は、世界の恥だ。

秋葉原事件で動く「労働者派遣法改正」に欠落する論点|辻広雅文 プリズム+one|ダイヤモンド・オンライン

 「反貧困」(岩波新書)の著者である湯浅誠氏は、「派遣労働においてもっとも問題なのは、低賃金でも雇用が不安定であることでもなく、労働者が何の発言も抵抗もできずに、ひたすら隷属してしまうことにある。派遣労働者は、工場の前で労働者としての権利、生存権を置き去りにしてから、入る」と言う。

 サービス残業や派遣労働、あるいは最低賃金が保証されないアニメ業界など、厳しい労働環境であっても、それをあえて受け入れざるをえないのは、とりあえず働けるところで働いて日々の生活をなんとかしなければならないからだ。
 表面上は、自分の意思で選択しているということにはなるが、追い詰められたときには贅沢な選択などできなくなってしまう。というより、思考そのものが目先のことにしか及ばなくなってしまう。
 財布の中に千円札が1枚しかないと、
「これで何日食べられるだろうか?」という発想しか出てこない。
 かつて、私がアニメーターだったとき、どん底の貧乏で浮かんでくる思考は、その日になにが食べられるかということが最優先のことであり、明日のこと、来年のこと、10年後のことといった、もっと先のことを考える余力さえなかったのだ。

 「格差」という言葉では、オブラートに包んでいるようだ。
 現代の「階級制度」あるいは「奴隷制度」といったほうがいいような気がする。

 表向きは、すべての国民に自由と平等が保証されている。そのための法律も作られてきた。しかし、実態は格差や排除という名の差別が存在している。
 フランス革命(1789年)以降、自由と平等のための革命や改革、あるいは戦争が繰り広げられてきた。現在でも世界には解消されない差別は残っているが、一定の成果として日本では自由と平等を享受してきた。
 それが民主国家、近代国家の証であるはずだった。
 豊かさを謳歌する時代になり、お金さえあればたいていのことは実現できてしまうようになった。技術の進歩で便利な時代になり、ネットで世界と繋がることも可能になった。市場経済、競争社会、能力主義、勝ち組などと、それらが良いことであると考えられている現在。
 勝ち組に入れる人たちには、快適な社会だろう。差別される側ではなく、意識しないまでも差別する側にいれば、便利で不自由のない社会だからだ。

 建前としての自由と平等の社会にはなったが、格差という新たな差別が生まれている。
 フランス革命前後の時代の階級社会は、明確な棲み分けのある階級社会だった。貴族と平民は完全に切り離されて、人間としての価値すら分けられていた。
 今日の格差階級社会は、明確な線引きがない。高級住宅街や高級マンションといった棲み分けもあるが、普遍的にその場所に居続けることができるわけでもない。高収入や高い地位を、なんらかの理由で失えば、一気に転落することもあるからだ。

 先進諸国が自由と平等の旗印で発展し、豊かになったことは間違いない。
 それがここに来て、自由と平等が煩わしくなったのではないだろうか?
 後期高齢者医療制度や年金の問題、正規雇用者と非正規雇用者の問題、能力主義や成果主義、教育に関わる様々な問題……等々。それらの背景にあるのは自由と平等ではなく、他者といかに差をつけるかといった発想に基づいているように思う。
 世界を見ても、強い国が弱い国や異質な国を攻撃するといった図式になっている。「テロとの戦争」と正義を振りかざしたものの、結果として無関係な一般市民を大量に巻き込んだ戦争になった。名目は自由と平等でも、攻撃を加えた相手の国の人々の自由と平等は尊重しなかった。テロリストを排除するために、周囲にいる無関係の人たちもまとめて排除した。

 格差のない社会……が理想とするならば、それは裕福な人々が自分たちの富を貧しい人たちに配分しなければいけないことを意味する。
 富は無限にあるわけではなく、有限のものだからだ。
 少数の人間が数千万円~数億円という富を手にすることができるのは、多数の貧しい人たちがいるからだ。
 国内に流通しているお金の総額「広義流動性」の残高1407.3兆円を日本の人口の約1億2000万人で割ると、1172万7500円になる。極端ではあるが、日本国内にある富のパイを均等に配分すると、この額になるということ。それよりも多い年収を得ている人たちは、それよりも少ない人たちから奪っているという考えかたもできる。
 より高収入を目指して能力を高め、必死に頑張る……ということは賞賛されることではあるが、富のパイを多く取ることは、他の人の取り分を奪い取ることでもあるとは気がつかない。
 勝ち組になること、勝ち組であり続けるためには、自由と平等は不必要ともいえる。そのことを理屈ではわからないまでも、感覚的に察しているから、弱者やマイノリティを排除する方向に進んでいる……というのは、極論過ぎるだろうか?

 歴史の中で獲得してきた「自由と平等」や「民主主義」は、市場経済が飽和状態の現在にあって、勝ち組には不都合なものになってきた。
 それが格差社会という、新たな階級社会、差別社会へと退行させることになっているような気がする。
 この流れを止めることはできるだろうか?

 タバコ関係のニュースが配信されると、YAHOO!ニュースのコメント欄に、喫煙者への容赦ない罵詈雑言が書かれる。
 それはまるで、「非国民!」と叫んでいた時代を彷彿とさせる。
 最近は環境問題も、喫煙問題と同じように、過激な攻撃がされるようになった。コンビニの24時間営業をやめさせようとするのも、そのひとつだ。
 世の中が、やばい方向に進んでいるような気がしてならない。

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