池田先生の「よい子講座」について、共感するところもあるのだが、気になった点についての細かいツッコミを(笑)。
裁判所が日本語をまちがえて使ってはいけません。国富とは、政府が国民経済計算で出している国民の資産の集計で、主な資産は金融資産です。非金融資産としては不動産や建物などの固定資産がメインで「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していること」という概念は含まれていません。
(中略)
つまり「科学は信用できない。どんな原発も史上最大の地震には耐えられないからだめだ」というのです。こんな基準で差し止めたら、日本中の建物はすべて使用禁止です。樋口裁判官が道を歩いていたら交通事故で死ぬリスクはゼロではないから、自動車も禁止です。
「国富」という言葉については、言葉の定義……「語釈」の問題だろうと思う。
言葉は使われる時代、使われ方によって、語釈は変わっていく。
現状の辞書の語釈では……
▼広辞苑
(1)国家の富力。国全体の富。一国の経済力。
(2)国民のあらゆる経済活動によって蓄積されてきた再生可能な有形資産の総額。
▼世界大百科事典 第2版
国富の概念には必ずしも定説があるわけではないが,簡単には〈一国の国民が所有する資産の総和〉ということができる。国民所得が一定期間に生産された財貨・サービスを記述するのに対し,国富は特定時点におけるそれらの現在高を表している。現在の国民経済計算体系(SNA)では,資産は有形資産と無形資産とに分類される。有形資産は,さらに〈再生産可能な有形資産〉と〈再生産不可能な有形資産〉に分類される。再生産可能な有形資産は,在庫と固定資産とから構成される。
池田先生のおっしゃる「国富」は、政府発表の経済指標としての国富のようなので、意味としては限定的ではないかと思う。
広辞苑でいうところの「国民のあらゆる経済活動によって蓄積されてきた再生可能な有形資産の総額」の解釈を採用すると、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していること」というのは、経済活動の行われている地域社会のことを指しているとも解釈できるので、国富と呼ぶことも可能な気がする。
世界大百科事典 第2版においては、「国富の概念には必ずしも定説があるわけではない」と、より広義な解釈になっている。
そうした解釈の違いがあるので、「裁判所が日本語をまちがえて使ってはいけません」とは断定できないのでは?
語釈が時代とともに変遷した例は少なくない。
たとえば「確信犯」
本来の意味は……
▼大辞林
道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき,自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯など。
だったのだが、誤用が広まってしまって……
悪いことだとわかっていながら行われた犯罪や行為。また、その行為を行った人。
……と、誤用とされていたものが、語釈として加えられるようになった。新しい辞書では、両方を併記している。
裁判での判例が、解釈の変更をもたらす場合もあるので、今回の判決が控訴審でくつがえされるとしても、国富について新たな解釈を与えたともいえる。この解釈が、どれだけ支持されるかだと思う。
そういう意味では、原発差し止めの裁判を戦う上で、「国富」の語釈に「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していること」を含めるように、世論を盛り上げるとか、日本語のルールブックである国語辞書を出版している編者に働きかけるとか、外堀を埋めるのも方法かもしれない。
池田先生のこの記事のブログタイトルが、
「科学は信用できないの? 」
となっているのを見て、まっ先に思ったことは……
それ、いっちゃまずいでしょ。
科学は信用するかどうかではないのだから。
科学は信用するかしないかではなく、事実や事象の正しさを証明または論理的に組み立てることだと思う。
▼大辞林
「信用」の語釈
①人の言動や物事を間違いないとして,受け入れること。 「彼の言葉を-する」
②間違いないとして受け入れられる,人や物事のもつ価値や評判。 「 -がある」 「 -を落とす」 「商売は-が第一だ」
③〔credit〕 給付と反対給付との間に時間的なずれのある取引を成立させる信頼。
「信用」の語釈には、感情的な要素があり、科学的な解釈では感情的な要素は排除される。ただし、人間の感情面を扱う心理学などは例外だが。
たとえ、マッドサイエンティストでも、理論に間違いがなければ科学的には正しいということになる。
だから、「信用できる」かどうかを問題にしてはいけない。
じゃないと、「STAP細胞はありま~す」みたいな話になってしまう。
また、科学は「現時点では正解」という場合もあり、新発見、新理論によって、正解が変わることもある。特に、解明されたことよりも未解明なことが多い分野では、科学的な妥当性は軌道修正されていく。地震についての科学的知見はこれに該当し、50年前には定説だと思われていたことが、現在では当てはまらないこともある(プレートテクトニクスは1960年代後半以降に発展した)。そのため、「地震の確率」は、新たな断層が発見されたり、考古学的な過去の事例が発見されると、可能性は修正される。
日本は地震の観測網が世界に比べたら充実しているが、それでも地震予知ができるレベルには達していない。理論モデルとしての地震が起こる仕組みはわかってきたものの、ある場所でどのような地震が起こるかは正確にはわからない。過去の事例から、同様の地震が起きるだろう……と推測できるだけだ。今現在、プレートの接触面で、地震を起こすひずみがどれだけ蓄積しているのか、具体的な数値として観測することは難しい。おおざっぱな周期から、そろそろ起きても不思議ではない……というのがせいぜい。その推測から「地震の確率」が想定されているので、研究者によって導き出す数字は異なる。
調べていて、興味深い資料を見つけた。
海上保安庁発表の資料で、日付は平成21年(2009年)5月11日。東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の起こった、2011年(平成23年)3月11日の2年前である。なぜか、この資料は現在の海上保安庁のサイトからは辿り着くことができず、検索によってサーバーに残っているデータを拾ったものだ。
2005年宮城県沖の地震(M7.2)後の海底の動き
~世界初!ひずみの解消から蓄積開始に至る動きを捉えた~海上保安庁では、東京大学生産技術研究所との共同研究により、海底に設置した基準点の位置をセンチメートルの精度で計測する海底地殻変動観測技術を開発し、東北から四国沖にかけての太平洋側に海底基準点を設置して観測を行っています。
この観測により、2005年8月に宮城県沖で発生した地震(M7.2)の際、震源のごく近傍(約10km)に設置した海底の基準点において、地震前後で東向きに約10cmの移動が検出されました。その後、さらに観測を継続したところ、2006年末頃まではほとんど動きがなく、2007年頃から、年間6.5cmの一定の速さで西北西に動き始めたことがわかりました。
これらの動きは、この地震を引き起こした原因である地殻ひずみの蓄積が、同地震の発生により解消され、一年程度の移行期間を経て、再びひずみの蓄積が開始される過程を、海底の動きとして捉えたものと考えられます。
これら一連の過程を海底で捉えたのは世界でも初めてであり、今後の宮城県沖地震の場所や大きさの予測に役立つと期待されます。
海上保安庁では、この成果を5月12日の地震調査委員会、5月15日の地震予知連絡会及び5月16日~21日の地球惑星科学連合2009年大会で報告する予定です。
※リンク先のPDFは、そのうち削除されるかもしれないのであしからず。
「今後の宮城県沖地震の場所や大きさの予測に役立つと期待されます」とあるが、結果論からいうと予測には役立たなかった。この資料で示された、ひずみの蓄積現象は東北地方太平洋沖地震が起こった場所に近いところだったのに。
震源は異なるから安易には結びつけられないが、2005年宮城県沖の地震(M7.2)では、ひずみは一部しか解放されずに残り、1年後にひずみの蓄積が再開され、6年後には東日本大震災を起こすに至ったという推測も成り立つ気がする。
池田先生が例として出した「確率」は、確率としての根拠や算出方法が異なるので、同列に並べるのは問題だと思う。
(1)交通事故に遭って死亡する確率
(2)降水確率
(3)地震の確率(文脈から地震動超過確率だと思われる)
(4)苛酷事故の起こる確率
(1)交通事故に遭って死亡する確率……は、過去1年に起こった交通事故で24時間以内に死亡した人数を、総人口の中に占める割合から導き出す。つまり、過去に起こった事例から、近い未来にも同様の頻度で起こるだろうという、統計的確率だ。その確率は、約0.003%(2012年データ)になる。人生80年として、一生涯に交通事故で死傷する確率を求めると、約50%(怪我だけの場合も含む)になる。
(2)降水確率……は、過去の気象データに基づいて似たような気象条件から、予報区内で一定の時間内に1mm以上の雨が降る場合を導き出す統計的確率なのだが、予報区内の平均的な数値として出されるので、平均的確率+統計的確率の合わせ技だといえる。なお、現在は10%刻みになっているため、端数は四捨五入されるので、4%の場合は0%と発表される。過去の気象データが豊富にあるので、直近の気象データを入力することで、かなり精度の高い確率が出てくる。統計的確率としては有意な数値になっている。
(3)地震の確率(文脈から地震動超過確率だと思われる)……も、過去の事例から想定する統計的確率ではあるのだが、近年の地震データは膨大にあっても、近代的観測が行われるようになる以前の過去データが不足している。大地震には周期があるとされるが、その周期もきっちり正確なわけではなく、数百年~数千年の誤差がある。
長い期間、大きな地震が起きていない空白地帯では、そろそろ起きてもいい頃だ……という推測から、地震の確率を高く設定される。古文書や地質的な地震の痕跡から推定できる発生頻度、断層の有無や規模、地盤のひずみや小規模地震などの観測から、確率を想定する。推定するのは専門の研究者だが、その推定結果は研究者ごとに異なる。不確定要素が多く、その要素による推定をどの程度見積もるかで差が出てしまうからだ。
※ポアソン過程による地震確率の推定方法については、こちらを参照。
「いつか起こる」とか「そろそろ起きる」では具体性に乏しいので、確率として数値を出すことでどのくらい切迫しているのかをわかりやすくしているにすぎない。
確率の算出に「ポアソン分布」が適用されているが、ポアソン分布は「少数の法則」ともいわれ、発生頻度が低い事象の場合の考えかた。
つい最近も、この発生確率は見直された。
首都直下「相模トラフ」震源域を大幅拡大、M8級を一括評価、確率2%→5%に 政府調査委+(2/3ページ) – MSN産経ニュース
このため調査委は、相模トラフで起きるM8級は元禄型や大正型に限らず、多様性があると判断。沈み込むフィリピン海プレートの構造から、科学的に起こり得る最大級の地震(M8・6)の震源域を推定し、この範囲内でM7・9~8・6の地震が起きる確率を30年以内にほぼ0~5%と一括して推計した。M8・2以上の地震は過去の元禄型の発生間隔などを考慮し、ほぼ0%とした。
確率は従来の最大2%から5%に上昇したが、新たに取り入れた地質などのデータは確実性が低いため、切迫度は実質的に変わらないという。
いつか起きるのは確実だが、それを数値化するのは困難だということだね。
(4)苛酷事故の起こる確率……の「苛酷事故」とは、「炉心が著しく損傷、放射性物質の大量放出につながるような重大事故」のことだが、地震によってこれに至った事故は福島第一原子力発電所のみであり、経験則による事故例の頻度が乏しく、統計的確率は出しようがない。
安全委は苛酷事故について、「現実に起こるとは考えられないほど発生の可能性は小さい」という見解を出していたようだ。
したがって、苛酷事故の起こる確率は、主観確率の傾向説ともいえる。可能性は否定できないのでゼロではないとして……
原子力委員会は苛酷事故の起こる確率を「500炉年に1度」(炉年=原子炉の数×年数)と想定しています。これは非常に高い想定確率ですが、これを採用すると、大飯3・4号機のどちらかで今後20年間に苛酷事故が起こる確率は、20年×2/500年=0.08つまり8%です。
……という確率。
「500炉年に1度」は、想定なのでいかようにも設定できる。この数字は、福島第一の3基が苛酷事故となったので、国内にある原発を1494炉年(廃炉を含む)として、3で割ると約「500炉年に1度」という計算。ただし、福島第一をひとつの原発としてカウントする場合もある。世界的に見ると、原発の数は431基(2010年データ)なので、総炉年も大きくなり(約15132炉年※)、苛酷事故はスリーマイル、チェルノブイリ、福島第一(1回とカウント)の3回だけなので、苛酷事故の起こる統計的確率は5044炉年に1度くらいになる。
※2005年版、世界の原子力発電所の運転経験(原子炉・年)より、その後の経過年数を加算。
言葉としての「確率」は同じでも、その確率を導き出す手法や条件および根拠は異なるので、これらを列挙して比較することには無理がある。
つまり「科学は信用できない。どんな原発も史上最大の地震には耐えられないからだめだ」というのです。こんな基準で差し止めたら、日本中の建物はすべて使用禁止です。樋口裁判官が道を歩いていたら交通事故で死ぬリスクはゼロではないから、自動車も禁止です。
史上最大の地震による日本中の建物のリスクと、交通事故で死亡するリスクは、樋口裁判官と池田先生と私にも、ほぼ等しく起こりうるリスクだと思う。この場合のリスクの確率は、非選択的で誰にとっても背負うリスクは平等だといえる。
しかし、原発事故がもたらす直接的な被害は、原発のある周辺地域に限定されたリスクだというのが、根本的に違う。間接的な被害は、停電や電気料金の値上げ、あるいは物流の停滞などとして、より広い地域にも及ぶが、直接的な被害に比べれば軽微だ。
非選択的な交通事故と、選択的な原発事故のリスクを、同列で語ることはできないと思う。
科学的・論理的に原発問題を考えようという、池田先生の主張には賛成だ。
しかし、この問題は論理や合理性だけで解決するものではないと思う。
苛酷事故の起こる確率が8%と聞いて、原発の事故が起こっても被害を被ることのない地域に住んでいる人にとっては、たいした問題ではない。「それなら安全だから、いいんじゃない?」といえる。自分が8%の中に含まれていないのだから。
一方、原発の事故が起こると被害がおよぶ地域に住む人たちにとっては、8%のリスクは人ごとではない。
そこには、論理だけでは納得できない感情や心情がある。
確率が低いから……ということでは心情は納得できない。そう思う心情の背景には、事故の影響を受けない人と受ける人との不平等感もある。なぜ、そのリスクを負わなければいけないのかと。
裁判で心情的な判決が出されたからといって、「幼稚」とか「文系のおじさんの特徴」などと揶揄してはいけないと思うのだ。地域住民を納得させるには、論理だけでなく心情にも配慮した説明・説得が必要だろう。「こわいから止めて!」というのは、原初的な生存本能でもある。それを論理的ではないと、切り捨てるのがよいとは思えない。
不安を払拭させるにはどうすればいいのか、何が必要なのか?
そのために、政府や首相、池田先生のような有識者、そして無力ではあるが私たちも考えなくてはいけないことではないだろうか?
論理だけで世の中が回るのなら、もっとうまく回る。
「論理的な帰結として、8%の確率で苛酷事故が起こると証明されるなら、その決定を受け入れよう」
「もし、今後20年以内に、事故が起こったとしても、それは論理的帰結なのだから運がなかったとあきらめよう」
「経済損失を考えると、再稼働は必要だ。そのためにわれわれの生活がおびやかされるとしても、日本の経済発展のためにはしかたがない」
「われわれが犠牲になることで、より多くの国民が豊かになるのなら、甘んじて受け入れよう。それが論理的だ」
……などと、いえればね。
地震の確率、原発が事故を起こす確率は、数字からいえば微々たるもので、無視できるような確率だ。論理的には理解できても、心情的には納得できない……ということから、不安や恐怖が起こる。無視できるような確率であっても、原発周辺に住む人たちは、その確率の中で生活しなくてはいけない。
そこに論理的かつ心情的な妥協点を見つける必要がある。
池田先生をはじめとして、影響力と発言力のある方たちは、原発周辺地域住民が納得できる説得方法を見いだして欲しいと期待してしまう。理解できない人たちを、アホよばわりしても解決しないと思う。
追伸
私は反原発、脱原発を支持しているわけではありませんよ。
原 宣一様
たいへん興味深い資料でした。
ありがとうございました。
私は確率の意味について若い頃からずっと疑問を持っていました。もう10年以上昔になりますが結論を得たのはE.T.ジェインズの「確率理論:科学の論理」を読んだときです。
訳本が出ていませんので要点だけを記載しておきました。
是非、この本をご検討ください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~pasadena/blog/blog2.htm