AIが絶対に人間を超えられない理由とは

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Female human standing on top of mechanical debris

Female human standing on top of mechanical debris.

なんでもかんでもAI……というAIブームなのだが、そこには誤解や妄想も含まれている。今現在可能になっていることと、将来的に可能になるかもしれないことがごっちゃまぜになり、AIのイメージだけが先走りしている。AIへの過剰な期待は、危険性もはらんでいる。

そんなAIブームに警鐘を鳴らす記事。

AIが絶対に人間を超えられない「根本的な理由」を知ってますか(西垣 通,千葉 雅也) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

AIが人間を超える知性をもつ、AIで多くの人の仕事が奪われるーーそんな議論が盛んになって数年。空前の「AIブーム」は、どんな結末を迎えるのか? 一部の人が夢見る「シンギュラリティ」はやってくるのか?

(中略)

千葉:つまりAI技術は人間を過去に溺れさせるような技術で、生命体としての人間が未来志向的に知性を使う方向性から堕落してしまうんじゃないか、とおっしゃりたいと。

西垣:そういうことです。人間というのは、人生の時間の中で、常に自分を「投企」していく。そうして新たな自分を作っていくわけですね。それが「生きる」ということなんじゃないかと。

ところが今後は、「AIの判断」なるものが入ってきます。すると過去にとらわれて、例えば「前例がないから」といって新しい道を拓けない、というふうになるのではないか。

千葉:先ほど、現象学で使われる「志向性」という言葉が出たじゃないですか。それはつまり、「何かに向かっていく」という矢印ですよね。生物には志向性がある。未来というのも、どこに行くか分からない。機械はどこまでいっても「原因があり、それに対する結果がある」だけですが、それに対して「目的」というものを設定するのが、生物の独特の問題だといえます。

なかなか興味深い内容。
私は、現状のコンピュータの延長線では、シンギュラリティは来ない……という立場。たびたび書いていることの繰り返しになるが、シンギュラリティを実現するための性能が、現在のコンピュータ(スパコンを含む)にはないからだ。

そもそも「AI」の定義が定まっていない。
どういう条件を満たすとAIと呼べるのか?
それはハードのことなのか? それともソフトウエアのことなのか?

Googleで「AI搭載」と検索をかけてみると、様々なものにAIと呼ばれるものが搭載されている。なんともいかがわしい(笑)。

AIの定義に関するユニークな記事があった。

「AIを搭載」は「全て自然」同様の技術的ナンセンスだ | TechCrunch Japan

公式には、あるいは一般的に合意された人工知能の定義は存在しない。

(中略)

「それは完全にデタラメな用語です」と言うのは、名前は明かさないがある有名ロボット会社のCEOだ。とはいえそのロボットの中には多くの人がAIと呼んでもおかしくはないものが採用されている。それは有能さの認識を生み出すために用いられるマーケティング用語なのである。何故ならほとんどの人は無能なAIを想像することができないからだ。邪悪なことはあり得ても(「申し訳ありません、デイブ、私にはそれはできません」)、無能なことはありえない。

(中略)

誤解を招き、誇張され、あるいは完全にでっちあげられた機能リストは、ハイテク業界における神聖なる伝統なので、こうした動きも目新しいものではない。しかし、新しい胡散臭い言葉が、トレンドを血眼で追うマーケティング担当者の語彙に加わろうとするときに、きちんと指摘しておくことは良いことだ。おそらくいつかは冷蔵庫の中に本当にAIを見出す日も来るだろう。しかしそれは今日ではない。

「AI搭載」というのは、じつのところナンセンスなのだ。サプリメントの広告で、「自然由来成分配合」と謳っているのと同じくらいナンセンス。食品で自然由来じゃない成分はないといっていい。自然界にないものを人工的に合成した分子は、プラスチックなどのごく一部で、人体には有害な毒物であっても、自然由来がほとんどなのだ。

巷のAIは、大安売りでチープなものがあふれている。これほどまでにAIを多用していると、ブームは数年で終わってしまうかもしれない。「AIがあれば、なんでもできる」という誤解というか先入観が浸透し、いざ導入してみたら、なんの役にも立たなかった……というケースも出てくる。AIの定義が明確になっていないから、混乱を招く。

余談だが、「おそらくいつかは冷蔵庫の中に本当にAIを見出す日も来るだろう」という、知性を備えた冷蔵庫の話を、私はSF短編として書いた(笑)。
デビルライン〈SF短編集〉 Kindle版」に収録している『ビールと麦茶とアイスクリーム』がそれ。ちょっと泣ける話なので、興味のある方はどうぞ。

話を戻して。

AIが人間を超える」というのも、なにを基準に超えたと判断するかが明確になっていない。単純な数学的計算能力でいえば、すでに人間の能力を超えているし、記憶力はいくらでも拡張できるから、すぐに忘れてしまう人間は太刀打ちできない。

誰もが持っているスマホは、ある部分に関しては人間の能力を凌駕している。
では、スマホは人間を超えたといえるのか?

NO……と答える人がほとんどだろう。スマホは便利な道具であり、ただの端末だ。スマホの中のAIが賢い返事をしたとしても、スマホはスマホで、超える超えない以前の問題として、対等の関係ではない。主従関係でいえば、人間が主でありスマホは従だ。主従関係が逆転することは、いまのところない(笑)。

つまり、目安の一つが主従関係で、どちらが主なのかということ。

AIの判断に従う、あるいはAIによって人間が考えや行動が規制されるようになったら、AIは人間を超えたといえるのかもしれない。

だとするならば、その傾向はすでに出始めていて、AIが出した答にそってものごとを決める事例はある。シンギュラリティを待つまでもなく、膨大なデータの蓄積からなんらかの選択肢を導き出すAIは、その答の真偽が不明でも、人々は神託を受けるかのように従うのだ。
「AIだから、間違っていないだろう」と。

おそらく、人間を超えるAIは、人々の幻想によって生み出される。
宗教画や仏像が神様の姿を想像で表現したものであっても、人々が信じることによって神様と同等になるように、AIの出す答を信じる人たちによって、AIは人間を超える存在になる……ような気がする。


BEATLESS

HAL9000なのか、MAGIシステムなのか、超高度AI ヒギンズなのかはともかく、能力的・性能的に人間の脳と同等かそれ以上の「意識と知性」を有するAIが登場するのは、早くても50年は先じゃないかな。

知性の壁は、そう簡単には超えられないと思うよ。

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