デジタル世代を再定義すると…


デジタル・ネイティブ」……という言葉は一時期目新しかったものの、さして注目されることもなく過去に埋没した。
久しぶりにこの言葉や概念を目にした(笑)。

デジタル・ネイティブなんか、いない?(3)~デジタル・ネイティブは偏差値50に存在する(新井克弥) – BLOGOS(ブロゴス)

もう一度、指摘された「高感度」なデジタル・ネイティブを確認する。

(中略)

一方、スマホでLINEをガンガン使う「偏差値50」のデジタル・ネイティブは

(中略)

つまり、面白いくらい全くの正反対になってしまうのだが、こういった層がスマホとSNSのLINEを圧倒的に支持したのだ。そう、こういった消費性を加速する若者こそがデジタル・ネイティブに他ならない。

う~む……、いわんとすることはわからないでもないのだけど、若者論はいつの時代も的外れなのが常で、若者ではなくなった中年や老年の郷愁や価値観の相違だったりする。

私も年齢的な衰えを実感するオッサンではあるが、当事者の若者たちは自分たちがデジタル・ネイティブかどうかなんて考えちゃいないだろうし、そんなことは意識もしていないと思う。

自分が若かった頃のことを思い出せば、その当時にはその当時のオッサンたちが論じる若者論があって、「最近の若いもんは……」と批判されたものだ。
これは数千年前から繰り返されてきた、若者と中年・老年世代との確執だ。

▼参考ページ
最も古い「最近の若者は…」のソース: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

最も古い「最近の若者は…」のソース

私が子どもの頃は、マンガとテレビが情報源であり話題の中心だった。
「マンガばっかり読んでると××××になる」とか「テレビばっかり見てると××××になる」などと、盛んに批判された。私の通っていた小学校では、テレビの視聴時間を制限するということまでやっていた。アホらしい話なのだが、テレビは子どもに悪影響があると信じられていたのだ。

そういう意味では、私たちの世代は「マンガ・ネイティブ」であり「テレビ・ネイティブ」だ。
まぁ、平たくいえば「映像世代」の走り。

上手い下手は別にして、マンガ的な絵は多くが描いていたし、教科書に書く落書きは文字ではなく絵だったりしたから、自己表現としてマンガ絵は自然だったとはいえるかもしれない。
のちにマンガ家が増えたのは、「マンガ&テレビ・ネイティブ」だったからだろう。

デジタル・ネイティブという言葉が注目されていた頃、NHKスペシャルで取り上げられていた。

NHKスペシャル|デジタルネイティブ ~次代を変える若者たち~

番組では、台頭しはじめたデジタルネイティブの素顔に迫り、世界のデジタルネイティブから寄せられた動画も紹介。世界を変える可能性を秘めた若者たちの”今”を多角的に見つめていく。

放送は2008年なので、もはや昔話。

新井氏のいう、「高感度なデジタル・ネイティブ」と「偏差値50のデジタル・ネイティブ」は、デジタルとの関わり方や利用の仕方が異なるわけで、「デジタル・ネイティブ」とひとくくりにして考えるのが無理なのだと思う。

ある対象や現象を論じるときには、傾向や特徴を「分類(カテゴライズ)」することから始める。デジタル・ネイティブとは大きな分類ではあるが、生物学的にいえば「界>門>網>目>科>属>種」のうち「」あたりの分類だ。
つまり「デジタル・ネイティブ目

「高感度なデジタル・ネイティブ」は才能を活かして創作したり起業したりする「デジタル・エリート」とでもいうべきカテゴリで、「偏差値50のデジタル・ネイティブ」はデジタル世代の大衆ということで「デジタル・パブリック」とか。

▼デジタル・ネイティブの分類体系の一例

デジタルネイティブ分類体系

デジタルネイティブ分類体系


植物を例にしてみよう。
「桜」と「薔薇」は見た目はぜんぜん違うものの、「バラ目」になる。
桜………バラ目>バラ科>サクラ亜科>サクラ属
薔薇……バラ目>バラ科>バラ属
となる。

基本的な特徴を共通して有しているから「バラ目」「バラ科」というところまでは同じ分類なのだが、種を決定づける部分が違うために、属が異なる。
「桜」と「薔薇」をバラ目として同列に論じるのは、あまり意味がない。

同様に、デジタル世代を「デジタル・ネイティブ」としてひとくくりに論じるのも、あまり意味がないように思う。
デジタル・エリート科」の中でも、クリエイティブに特化した人やビジネスに特化した人がいるわけで、「デジタル・クリエイティブ属」「デジタル・ビジネス属」として別のカテゴリーになるだろう。「デジタル・パブリック科」の中でも、特徴はいくつかに分かれる。

ビッグデータの活用がいろいろな分野で進もうとしているが、一見無関係に思える人々の行動や発言、消費行動を傾向として分類するときは、上記のような系統的な分類をしていくことになる。

ある「属」の人たちは、どのように考え、行動をするか?……という分析は、生物学的な分類に通じるものだ。マーケティングは専門外だが、系統立てた理論的な構造を考える点では科学と同様だろう。デジタル・ネイティブをマーケティング的に分析するのなら、「科>属>種」といった分類をいかに的確に定義するかだと思う。
分類を法則として成立させるには、どういう基準で分類をして、その分類をどう位置づけるかの整合性が重要だ。

アメリカの大統領選でのビッグデータの活用では、所有している自動車の車種で、共和党支持なのか民主党支持なのかがおおよそわかるのだという。この法則を導き出した統計専門家は、カテゴライズと分析の達人だ。100%確実である必要はなく、60%とか70%であれば大きく外れることにはならない。信頼性が50%以下になってしまうと、そもそもの分類の仕方が間違っていたということになる。

大統領選でニューヨークタイムズのネイト・シルバーの数理モデル予測が全50州で的中―政治専門家はもはや不要? | TechCrunch Japan

大統領選でニューヨークタイムズのネイト・シルバーの数理モデル予測が全50州で的中―政治専門家はもはや不要?

「デジタル・ネイティブ」を「目」とし、傾向ごとにカテゴリを分けていき、「科」「属」へと系統立てていく場合にも、数理モデルは組み立てられるのではないかと思う。

それができたなら、マーケティングツールとして強い武器になる。ある商品やサービスのターゲットを、どの「属」あるいは「科」に向けて設定するかといったことから、この「属」の人たちは、この商品(サービス)に食いつく……といったことも予測可能になるかも。

現状、経験と勘から試行錯誤して、ヒットするかどうかはやってみないとわからない。それが数理モデルで成功する確率を予測できたら、無駄な投資をしなくてすむ。
たぶん、そのうち誰かがそんな理論を編み出す。

デジタル・ネイティブは、いろいろな科や属に分類されるとしても、携帯端末を含めたコンピュータとネットが不可欠だがら、思考や行動の予測が立てやすい気がする。

かくいう私は、おそらくコンピュータを使い始めたほぼ最初の世代だと思う(笑)。
プロフィールに「コンピュータ歴30ン年」と書いているのだが、1970年代後半からコンピュータをいじってきたからだ。

工業高校出身なのだが、専攻は電子工学で、おもにコンピュータを扱っていた。当時のコンピュータはオフコンとかミニコンと呼ばれていたが、学校にあったのは富士通の「FACOM 230-15」だった。
この資料ページにあるようなフルセットではなく、冷蔵庫サイズのコンピュータ本体に電子タイプライター、マークシート読み取り機、紙テープ読み取り機があった程度で、モニタはなかった。ステータスはプリントアウトだったのだ。

プログラムは電子タイプライターから直接入力するか、マークシートに記入して読みとらせていた。データの保管は紙テープだ。穴の空いた紙テープが、何巻もあったものだ。
システムの起動は、カセットテープだった。見た目は普通のカセットテープだが、中身がシステムデータになっていた。起動するのに数十分かかっていたと記憶している。

FACOM 230-15のスペックを見ると、「ICの採用により高速マシンサイクル 750nsを実現」となっているので、今風にクロック数に換算すると、約1.33MHzといったところ。なんとも非力なマシンだが、これでFORTRANやCOBOLのプログラムを組んでいた。

デジタル世代というと、インターネットが普及して以降の世代を指すことが多いが、もっと以前、パソコンが普及する以前から、デジタル世代は始まっている。
マシンの性能が飛躍的に向上し、ネット環境なども爆発的に普及したが、基本的なことはあまり変わっていない。形が変わり、使い勝手がよくなっているだけで、仕組みのベースは同じ。古いものを新しいテクノロジーで作りかえているだけだ。

スマホにしろSNSのサービスにしろ、所詮ただの道具。絵描きも、鉛筆からディスプレイ上で描くCGになったが、求められる絵心の才能は変わらない。
なにを使うかではなく、どう使うかだ。

所詮道具とはいえ、道具でなにができるかで、できることの限界が変わる。
FACOM 230-15では、日本語の文章を書くことはできなかったし、絵を描くこともできなかった。その性能がなかったし機能もなかったからだが、そもそも文章を書いたり絵を描くためにコンピュータを使うという発想がなかった。

学生だった私は、FACOM 230-15を使って絵を描いてみせた。今でいうアスキーアートだ。アルファベット文字の濃淡を利用して、プリントアウトに文字を指定通りに配置させるプログラムを組み、「蝶」を描いたのだ。先生は驚いていた。そんな使い方をした生徒はいなかったからだ。自分でいうのもなんだが、たぶん最古のアスキーアート(笑)。

携帯電話の初期は、文字通り通話することが主体だった。のちに短い文章をメールとして送れるようになり、メール文化が浸透していった。やがてWEBを見られるようになり、WEBを介したサービスが主流になった。

それらの変化は、道具としてなにができるかの向上の結果だ。その変化にともなって、使う人の行動パターンも変わる。
携帯電話のない時代の彼女とのデートは、数日前から約束した場所と時間で待ち合わせるというものだった。直前になにか予定外のことがあって、約束時間に行けなくなっても、すでに外出していれば連絡の取りようがなかった。数時間待たされることもあった。

現在では、リアルタイムで連絡が取れるから、すれ違いになることはない。デートの仕方も変わった。道具によって、人の行動は変わるという端的な例だ。

若者と限定するのではなく、デジタル世代を再定義して「科>属>種」というようなカテゴライズをしていくと、もっといろいろな分析や将来的なことも予測できるような気がする。
そのへんは、もっと頭のいい人にお願いしたい(笑)。

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