ウイリアム・ギブスン物語

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ウイリアム・ギブスン物語

久しぶりに、アイスをスロットにぶっ込むような文章を読んだ。
黒板を爪で引っ掻いたときの「キーーー」と耳を刺すような、あるいは真夏の太陽で溶けたアスファルトの上を歩いているような感じ。
目障りな妖精を払いのけても、目が覚めない状態。
もやもやしつつも、深層部分では針の先端のごとく鮮明な光景。
そう、これは「感動」と呼べるものだ。

サイバーパンクの立役者である、SF作家のウイリアム・ギブスンを取材した記事。
※有料記事なので、全文を読むには会員登録する必要がある。
この記事そのものが、サイバーパンクしている。

ウィリアム・ギブスンのSFは、なぜ予想される未来ではなく「現在」を描きだしているのか(前篇) / WIRED

ギブスンは、コンピューターとそれがもたらす帰結について探求した最初のSF作家ではない。「サイバーパンク」として知られることになる運動はすでに始まっていた。しかし、『ニューロマンサー』は、コンピューターが隅々まで浸透した、物質面でも感覚面でもリアルに感じられる世界を想像することで、サイエンス・フィクションを変えた。ギブスンのハードボイルドな散文にはデザインや質感への狂信的なまでのこだわりがある。

ハッカーのロフトには、ブラウンのコーヒーメーカーやオノ=センダイのサイバースペース・デッキ、「発泡梱包材の白い抽象形態と、くしゃくしゃのプラスティック膜と、何百という小さな発泡スチロール球スタイロフォーム」がある。宇宙船は、「壁は模造の黒檀ベニア張りで、床は灰色のイタリア・タイル」──メルセデスのクルマがこの「お大尽の個人用保養所」(金持ちのプライヴェート・スパ)と交差するのだ。ギブスンの描いた未来は年季が入ってもいる。若づくりが偽物であることは「医者にも消せないしるし」である「手の関節の独特の皺」でわかる。サミュエル・R・ディレイニーはこの小説の「催眠術的ですらある、表面の硬質さ」に驚嘆している。ウイルスを利用するハッカーを描写しながら、ギブスンは彼自身の言語を発明したのだ。この言語は使われるたびに強度を増していく。「アイスをいくつかスロットに入れ、構造物をつないでから、没入ジャック・インする」

日本におけるサイバーパンクの立役者は、「ニューロマンサー」等の一連の作品を翻訳した故「黒丸 尚」氏の存在なくして語れない。

「ジャック・イン」を「没入」と訳したのは、大発明だと思う。ベタに翻訳すれば「接続」とかそんな単語になったはずだ。「サイバー」を「電脳」と訳したのも絶妙だった。
黒丸氏の翻訳がなかったら、サイバーパンクは日本には浸透しなかったかもしれないし、マンガの攻殻機動隊は違う形になっていたかもしれない。

この記事を読みながら、これはノンフィクションなのか? それともギブスンをネタにしたSFなのかと目眩がした。
なんなんだろう? この浮遊感は。
記者が、多分にギブスンの文体を意識して書いていることは間違いない。
迷路で迷子になって、出口になかなか辿り着かないもどかしさ。だけど、どこかワクワクするスリルを感じる。過去、未来、現在が交錯し、シュレッダーで切れ切れにして、それをランダムに貼り合わせたようなビジョン。

ああ、そうだ。
忘れていたよ。この感覚だ。ニューロマンサーに魅せられた理由は。
コンピュータもネットも未熟だった時代に、めっちゃクールな未来を体感させてくれた。氷を入れすぎたマクドナルドのコーラくらいにクールだった。氷を食べているのか、コーラを飲んでいるのかわからなくなるほどに。

ギブスンは日本との縁も深く、日本ネタがちょくちょく出てくる。

ウィリアム・ギブスンのSFは、なぜ予想される未来ではなく「現在」を描きだしているのか(後篇) / WIRED

ギブスンは日本で「オタク」という単語を学んだ。レーザー光線のように強い興味関心とオブセッションをもった人間を描写することに用いられる単語だ。ウェブの登場によって、どこでも誰でも同じようなオタク的オブセッションをもつことができるようになった──テレビでもコーヒーでもスニーカーでも銃でも、対象は何でもいい。こうした知識の可能性は世界の上にヴェールのように覆いかぶさっている。

オタクのことを「レーザー光線のように強い興味関心とオブセッションをもった人間を描写することに用いられる単語」なんていう日本人はいないぞ(^_^)b
日本的には「極端な趣味に走り、有り金をつぎ込む、偏屈な人間」だろう。

記事を読んでいて、ギブスンが実在の人物なのか、物語のキャラクターなのかわからなくなってしまった。いやまぁ、一読者からしてみれば、会う機会はないし、雲の上の存在なので、もはや伝説的な存在ではある。

ギブスンの人となりの一端を書いてくれているのだが、それすらもフィクションに思えてしまう。ギブスンの作品の番外編を読んでいるような感覚になった。
取材記事ではなく、ギブスンの物語だ。
その物語を、ネット記事としてディスプレイ上で読んでいる私。
なんてサイバーなことか!

今ではコンピュータもネットも当たり前になっているが、「ニューロマンサー」が発表された1984年(日本語版は1986年)は、当たり前ではなかった。ギブスンがこの作品を手動のタイプライターで書いたというのは逸話だが、想像力を頼りに書いたとは思えないほど未来がリアルだった。

現在はギブスンの描いたサイバースペースに近づきつつあるが、まだまだ達成できていないことは多い。没入ジャック・インが簡単にできるような環境にはなっていない。人間の意識……つまり「脳」とコンピュータを直結する方法が見つかっていないからだ。

前後編の長い記事だが、サイバー感覚にあふれた記事だ。
こういう記事は珍しいというか、私は初めて。
いいものを読ませてもらった。

錆びついた引き出しに556を吹きかけて開け、しまったまま忘れていた記憶の欠片を取り出してみようか。もはや賞味期限切れの“想い”ではあるが。
糠につけこんでいたから、発酵は進んでいるだろう。時間が経ちすぎると腐敗か。
最近は、小説ではなく映像の方に夢中になっているものの、“書く”ことはやめられずにブログで駄文を書いている。

ギブスンの作品が読みたくなった。
いま読むとすると、タブレットで電子ブックかな。
時代は変わったものだ。

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