ネットとリアルは区別しない世代

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デジタルネイティブ世代のネットとリアルの関係についての記事。
私のブログでも、過去、関連する記事はいろいろと書いているが……

「つながり方」を変えるネットネイティブの現在進行形 – CNET Japan

 僕らの世代はそもそもコンピューターが身近に無い時代に育った。言い替えれば「アクセス速度が速くなった!」「大容量メモリが安くなった!」etc.と、その時代のトレンドとともに進化する技術を体験することができた。だからそんな進化を知らない世代とはスタート地点がまったく違う……最も大きく感じるのがこのギャップだ。

ネットワークの授業の中で「ネットワークがあることで仕事のやり方、恋愛事情、生活がどう変化したか」をテーマにディスカッションをやっているのだが、そこで出てきた意見に「自分はネットとリアルは区別していない」というものがあった。

筆者の小川氏は、たぶん私と近い世代だと思う。
私もコンピュータの発展とともに、成長してきた世代だ。

ただし、私の場合は、ちょっと例外かもしれない。というのも、私は高校生の時から学校の授業としてコンピュータを扱ってきたが、それは1970年代後半からだ。Appleが最初に「Apple I」を発売したのは1976年だが、それ以前からコンピュータを扱っていた。当時は、オフコン(オフィスコンピュータ)と呼ばれていたが、大きなタンスくらいある機械だった。記録メディアはオープンリールのテープか、巨大な円筒形の磁気ドラム、あるいはもっと廉価なもので、紙テープに穴を開けるというアナログなものだった。

Apple I (Apple-1)

Apple I (Apple-1)

学校にあったマシンは、オフコンよりも小型で、冷蔵庫くらいの大きさの「ミニコン」と呼ばれていた。メディアはカセットテープと紙テープ、読み取りにマークシートを使うこともあった。ディスプレイはなく、電子タイプライターでステータスを印字するという、呑気な時代だ。
インターネットは誕生していなかったし、ネットワークで機器をつなげるという環境もなかった。孤立した巨大電卓だったのだ。言語はFORTRANとCOBOL。いちおう、覚えたが、もう忘れた(^^;)。

巨大だが、現在の携帯ゲーム機よりも非力な、電卓に毛が生えた程度のコンピュータだ。それでも、当時としては最先端。電卓と違うのは、プログラムを組めるということだった。

その後、日本でもパソコンが発売され、私はNECの初期のPCシリーズを使い始めた。
一時期、ワープロ専用機器がブームになったりもしたが、やがてパソコンがワープロ機能を吸収してしまった。パソコン通信が一部のマニアの間でブームとなり、電子メールという言葉も、一般化していった。

当初は、アナログ回線にモデムで接続して「ピーー、ピーヒョロヒョロ」とアクセスする音がしていたものだが、古き良き時代の懐かしい音になってしまった。低速回線で、料金がバカ高かった時代だ。

そして、インターネットが本格的に普及する。
マニアの領域だった、コンピュータとネット(パソコン通信)が、インターネットとして広く一般化する時代が始まった。
そこからは急激にネット化が進行した。
携帯電話でメールができるようになるなんて、その当時は誰も予想してなかっただろう。今や、メールは普通のことになっている。

しかし、私にしてみれば、高校の時にミニコンを扱い始めてから、コンピュータは特別なものではなかった。私には「普通」のことだったのだ。
性能が向上し、できることが増えていったが、私には「できて当然」のことでしかなかった。いずれは可能になる……という予測くらいはできるから、問題は「いつ」できるようになるかだった。

パソコンで文章を打ち込むというのも、日本語入力が非力で、単漢字変換しかできなかった時代から始めている。1983年のことだ。

※参照→最初に使ったパソコン、NEC PC-6601(1983年)

その頃から、「文章はキーボードで打つ」というのが、私にとって「普通」になった。
文章だけでなく、非力なグラフィックソフトで、絵も描いた。マウスでなぞって、ドットを埋めていくという、古典的な方法だ。現在、漫画家として活躍している「こやま基夫」君と作った。おそらく、個人レベルで作って発表したCGの最初(^_^)。といっても、ネットのない時代だし、確認しようがないが。このCGは同人誌のカラー表紙として使用した。しかし、デジタルな出力環境はなかったので、CRTをフィルムカメラで撮影するというアナログな方法をとった。

前置きが長くなったが、高校生の時からコンピュータをオモチャにしてきた私には、コンピュータは日常の一部だし、ネットとリアルの区別もあまりない。
むしろ、今どきの若者の方が、ネットやデバイスに対する免疫が乏しい気がする。常にケータイやスマホを握りしめて、小さな画面を覗き込んでいる様子を見ると、そこまで依存しなくてもいいだろうに……と思ってしまう。

「ネットとリアルの区別がない」といっても、2種類あるように思う。

1つは、ネットとリアルのバランスがFIFTY-FIFTYで、偏りがない場合。私はこっちだ。
もう1つは、ネットに依存して、ネットにぶら下がる形でリアルがある場合。ケータイを常に見ている人は、こっちだね。

つまり、前者はネットとリアルが「並列」、後者はネットがリアルを「内包」しているタイプだ。
2つのタイプは、「ネットとリアルの区別がない」ということでは共通しているが、「感覚」としては似て非なるものだと思う。

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