iPhoneがスマートフォンのトレンドになったようで、iPhone似のケータイが次々と登場しつつあるようだ。
4月末に日本でも発売される予定のiPadも、新たなトレンドを生みそうな気配。
Appleはスマートフォンにしても、タブレットコンピュータにしても、先駆者だったわけではない。むしろ、様子を見つつ製品を開発した後発だ。
市場の空気を読みつつ、ニーズが高まりつつある格好の時期に、それまでの概念を塗り替える製品を投入することで、新たな価値基準を作ってしまう。
その手法がいつも成功したわけではなかったが、ここ最近はヒットを飛ばしている。
これから各社が作るであろうスマートフォンやタブレットコンピュータは……
iPhoneと比べてどうか?
iPadと比べてどうか?
という評価をされるだろう。
機器としての機能や性能面では、日本のメーカーも互角に渡り合える技術は持っているだろう。
AppleがAppleらしい根幹は、ハードの技術よりも、機器のデザインであったり、ソフトウエアのセンスであり使い勝手なのだ。
昔から、「日本はソフトが弱い」といわれていた。
ハードの技術だけで勝負できた時代は、メイド・イン・ジャバンは優れていた。
しかし、コンピュータが一般的になってくると、基本であるCPUとOSは主導権を奪われ、主要なアプリケーションも海外製を日本語版にローカライズするものが多くなった。
食糧自給率が低下して、日本食といいながらも輸入食材がほとんどであるのと同じように、国産の製品といいながらも、心臓部と頭脳は外国製にすぎない。早い話が、他所が作ったパーツを寄せ集めて組み立てているだけだ。
Appleも、ハードに関してはアウト・ソーシングで、部品は韓国製や台湾製だ。決定的に違うのは、OSを含めたソフトの完成度が高いことだ。
それがAppleらしさになっている。
さらに、AppleはiTunes Storeに代表されるマーケットのプラットフォームも作ってしまった。
市場を自ら作ってしまったところが、他の追随を難しくしている。
SONYもやってはいるが、影響力は小さい。
製品だけでは、製品を売った段階で完結してしまう。たくさん売らなければ、収益は維持できない。
従来の売りっぱなし方式では、限界が見えてしまう。
だが、1つの製品を売って、その製品で使えるソフトやコンテンツを買わせ続ければ、収益は持続する。
ケータイ市場は飽和状態だといわれているが、それは売りっぱなし方式の限界に達しているからだ。
スマートフォンを展開するにしても、その許容値はそれほど多くはないだろう。
そのことは、以下の記事からもわかる。
調査リポート:女性の8割、男性の6割が「スマートフォンを購入するつもりはない」 – ITmedia プロフェッショナル モバイル
一方で、男性の64.5%、女性の82%が「購入するつもりがない」と回答するなど、“スマートフォン元年”といわれる2010年も、現状では購入意向を示す人が半数を割っている。
いろんな機能を詰めこんだスマートフォンは、いわば幕の内弁当みたいなもの。なんでもできるのは便利なようで、じつのところ全部の機能を使う人は少ない。
どんな機能があるか、というより、なんの目的で使うか、ということの方が重要だろう。
その目的を満たすのは、ハードとしての機能よりは、どういうソフトがあるか? ということになる。
以下の記事も興味深い。
スマートフォン・シフト始まる—-ケータイからモバイル・コンピューティングへ – デジタル – 日経トレンディネット
将来的にもスマートフォンが主流化する下地は存在する。2007~2009年にかけて内閣府や総務省が実施した調査では、20歳未満の若い人たちの間では「携帯電話よりもむしろコンピュータ(パソコン)を使うことの方が多い」ということが繰り返し指摘されてきた。つまり「メールからウェブ・アクセスまで、何をするにも携帯電話」という、いわゆる親指族(携帯世代)は今や、過去の話になりつつあるのだ。スマートフォンは携帯電話というよりモバイル・コンピュータであり、学校へのパソコン教育が浸透してから成長した現代のティーンエイジャーにとっては、むしろ親しみやすいものなのだ。
子どものケータイを規制する話があったが、それとは矛盾する話に思える。
子どもたちの使う頻度が多いのは、ケータイなのか? パソコンなのか?
実態はどっちなんだろう?
ケータイをいつも持ち歩いている子どもが多いのは確かだろうが、ノートパソコンなどの携帯可能なパソコンを持ち歩いている子どもは少ない。
外ではケータイ、家ではパソコン、ということか?
求められているのは、スマートフォンというよりモバイル・コンピュータだろう。
大きさはB5とかA4でもいいのだが、軽くて持ち運びしやすいものがいい。普段、使っているバッグはA4が入るくらいのものだから、大きさは気にしない。というか、画面の大きさやキーボードの使い勝手からいえば、そのくらいは必要だ。
重さが1キロもあるのは辛い。
iPadで680gだが、500gを切るくらいになると、利便性は高まる。
折りたたみができる液晶なんてのも出てきたから、持ち運びのときは3つ折りにしてポケットに入れ、使うときは広げてA4サイズで……というような製品が出てくると、面白いのだが。
ただね、ケータイにしろパソコンにしろ、それに依存というか中毒になってしまうようでは困る。
ケータイ依存症の人は多い。
四六時中手放せなくて、電車に乗ってるときも、歩いているときも、いつもケータイをいじっている人たち。
道を歩いていて、前の人が突然立ち止まることがよくある。混雑する通勤時間帯に、駅のホームや改札付近で立ち止まられると、人の流れの渋滞が起こる。張本人はケータイに夢中で、自分がなにをしているのかの自覚がない。
そうまでして、ケータイを使わなくてはいけないのか?……と思う。
使うのはかまわないが、人の邪魔にならないように、脇に移動するといった配慮がまるでない。
一昔前は、電車内においてケータイで電話をする人が多かった。それも大声で。ケータイから聞こえてくる音声は小さいので、無意識に大声になってしまうのだが、そういう自覚がない人たち。
さすがに、最近は電車で電話をする人は少なくなったし、小声で「いま、電車だから」と切る人もいる。いったん、電車を降りて電話をする人もいる。
そのへんのマナーというか、ケータイ電話を使う上での免疫はできてきたようだ。
だが、ケータイのメールに関しては、まだまだ野放図だ。
電話をするほどの迷惑にはならないと思っているからだろうが、メールの文字を読むために画面に見入っていると、周囲のことは忘れてしまう。自分の立ち位置が邪魔になっていることには気がつかない。
まだまだネットやメールに対する「免疫」というは、できていないのが現状のようだ。
過度に夢中になる……依存症から脱することができていない。
Twitterを見ていてもそれは感じる。
頻繁につぶやいたり、フォロワーの数を増やすことだけに夢中になっている人は多い。まるで、フォロワーの数を増やすことが、ゲームをクリアする条件であるかのように。
そういう「熱」が冷めるのには、まだ時間がかかりそうだ。
まぁ、ブームとはそういうものではあるのだが。
スマートフォンの時代がそろそろ来ますね。私は信じます。