デジタル時代の生態系

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 電子新聞、電子ブック、デジタルコンテンツに関連した話題。
 コンテンツをデジタル化しネットで配信・販売する時代に、「コンテンツ立国」としてどういう対応が必要なのか……という記事が以下。

ASCII.jp:ネット帝国主義、その先にあるもの。|まつもとあつしの「メディア維新を行く」

 メイド・イン・ジャパンという言葉は、もはや家電製品やクルマではなく、日本の文化産業の輸出を指すのだと指摘する人もいる。「ものつくり」立国から「コンテンツ」立国への転換を図ろうという動きが、1990年代から産学官で盛り上がってきた。

 しかし、コンテンツ産業がかつての電機・自動車産業のような躍進や規模感を見せているかというと、まだまだ道半ばという状況だ。日本が得意としてきた「ものつくり」の発想とは違うところでその成否が分かれることに私たちはようやく気づき始めている。

 「ものつくり」のメイド・イン・ジャパンが世界に通用したのは、世界標準があったからだろう。
 車では日本でもアメリカでもヨーロッパでも、問題なく走る。ハンドルが右か左かという違いはあるものの、さほどたいした問題ではなかった。基本的な部分は、どこの国に持って行っても通用した。
 電化製品も同様だ。家庭用の電源電圧の違いはあるが、それは電源部の仕様を対応させればよかった。テレビに関しては、国によって方式が違ったりもしているが、デジタル放送になれば規格はほぼ統一される。
 「もの」を作るのに、世界のスタンダードな規格があるおかげで、日本で作ったものがどこの国にも輸出できた。

 コンテンツがやっかいなのは、世界のスタンダード規格がないことだ。ファイルフォーマットはいろいろとあるし、いずれは統一規格ができてくるだろうが、現状は主導権争いの真っ最中。

 もっと大きな問題は、じつは「言語」なのだ。
 前にも書いたことだが、コンテンツは言語によって成り立っている。映画、アニメ、音楽、新聞、書籍等々、その国の言語によって作られている。
 日本のコンテンツを輸出するには、「翻訳」という余計な行程が生じる。自動車や電化製品にはなかった壁だ。
 トヨタの車は、日本でもアメリカでもトヨタの車だ(多少の仕様の違いあるにしても)。
 しかし、日本語で作られるアニメは字幕か吹き替えにしないと、アメリカ人には意味をなさない。私たちは洋画を字幕で見るが、意味の大意は伝わっても、細かいニュアンスまではわからない。ある意味、本来の作品意図を薄めた状態で鑑賞している。
 作ったものが、そのまま通用しない……というのは、かなりのハンデだと思う。
 多くの日本人にとって、英語の壁は大きい。

 iPadやkindleが普及しても、日本語の電子書籍を買ってくれる人は日本語のわかる人(基本的に日本人)でしかいない。インフラは世界に届いているが、言語の壁が立ちはだかる。
 車に言い換えれば、日本国内では走るが、アメリカに持って行くと走らない車のようなものだ。これでは戦うことすらできない。
 日本語のコンテンツは、世界ではスタートラインにすら立てない。
 最初から不利な戦いを強いられる。

 「もの」を作って売っていた時代と、「デジタルコンテンツ」を作って売る時代の違い。
 それは「生態系の変化」なのかもしれない。
 恐竜時代の終焉と、ほ乳類時代の到来のように。
 マスメディアが絶大な影響力で市場を支配して時代は、食物連鎖の頂点にマスメディアが君臨していた。
 それがネット時代になって、環境が激変して、王者だった肉食動物は適応できなくなった。
 餌であった市民=ユーザーの価値観や行動が変わり、肉食動物は狩りの成功率が下がり、飢えるようになった。獲物を求めて、旧来の縄張りから行動範囲を広げて、サバンナや砂漠に行ってみたものの、収穫は乏しく、逆に疲弊してやせ細り、中には飢え死にしてしまう者も現れた。
 そんな感じだ。

 かつての食物連鎖の頂点にいたマスメディアに代わって、頂点に立ったのはポータルサイトやSNSになった。新たな王者は、かつての王者を食べる側になった。マスメディアは捕食される側に転落した。
 生態系は変わった。
 戦うためのルールも変わった。
 環境の変化は、新たな進化を促進する。
 適応できないものは、絶滅危惧種だ。
 生き残るためには、隔離して温室にでも封じこめるしかない。天敵が入ってこないように、隙間を作らずに。
 ガラパゴス化というのは、そういう意味では日本の産業が生き残る1つの方法かもしれない。

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