「Twitter疲れ」は起こるか?

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Twitterアイコン(2009年)

Twitterアイコン(2009年)

Twitterがなにかと話題になる昨今。
プライベートに使うツールとしてはもとより、ビジネスにも活用する動きが加速している。
がしかし、私はイマイチ使う気にならない。
なんか、面倒くさいなー……という気持ちが先に立ってしまう。

過去のエントリーにも書いたが、私はコンピュータ世代の第一世代だろうと思う。
私が最初にコンピュータに接したのは、まだ世の中に、パソコンもネットも誕生していなかった時代。コンピュータが銀行などのごく一部の企業でしか使われていなかった頃だ。

高校生だった私は、学校の授業でコンピュータを学んだ。学校にあったコンピュータは「ミニコン」と呼ばれていたが、中型の冷蔵庫くらいの大きさだった。システムを起動するのに、カセットテープから読み込んで、カッチンカッチンと時計の秒針のような音を立てながら、起動するまで30分くらいかかった。
ディスプレイはなく、電子タイプライターで紙にタイプして、ステータスを表示していた。データの記録は「紙テープ」に穴をあけるという、古式ゆかしい方法だった。古いウルトラマンのテレビに出てくる、穴の開いた紙テープのリボンである。

マシン言語はFORTRANとCOBOL。できあがっているアプリケーションなんて存在しないから、なにかの計算をさせるのに、自分たちでプログラムを組む必要があった。
そんな非力なコンピュータだったが、夢中になった。
放課後、コンピュータ室に入り浸っていたりもした。

現在では、誰でもパソコンを持てるようになったし、使えるようになった。性能は桁違いに向上し、既成のアプリケーションが豊富にあり、なんでもできてしまう。
ふと、高校生の頃を思い出してみると、コンピュータに夢中になったときの気持ちというか気分というか、その根本的な部分は、昔も今も変わらないように思う。

それはなにかというと「面白いオモチャ」だからだ。
生活の道具、仕事の道具、社会を支える道具にもなったコンピュータだが、個人的には「面白いオモチャ」であることに変わりはない。

ネットはその延長にある。
面白いオモチャの中に、「ネット」でも遊べる要素が加わっただけだ。オモチャ箱の中身が増えたわけだ。

初期のパソコンは、単体で孤立していたから、1台のパソコンで自己完結していた。私が最初に使っていたNECのパソコンが「PC-6601」で、自分で最初に買ったのはPC-9800シリーズの初期モデル。動作クロックが8MHzとか12MHzなんていう、今と比べれば電卓並みのスペックだ。

他のコンピュータとつながることはなかったから、コミュニケーション・ツールにはなりえなかった。使用目的は、文章を打ちこむこととか、表計算ソフトを使うことくらい。

当時はインターネットも誕生していなかったから、バソコンがコミュニケーション・ツールになるなんて、想像もしていなかった。乱暴な例えをすれば、板に穴を開けるのに、キリをつかっていたのが電動ドリルになった……というようなものだ。単純に「文章を書く電動道具」としての扱いだった。その電動ドリルが、10年後にコミュニケーション・ツールになってしまった。

のちにパソコン通信が始まり、電子メールが必須のツールになった。
それ以前は、文章をパソコンのワープロソフトで書き、プリントアウトして郵便で送る……という方法だったのが、電子メールで即座に送ることができた。
家にいながらして、相手にテキストのメッセージを送れるというのは、画期的だった。返事がその日のうちに返ってくるだけでも、すごいことだったのだ。
送信して返信が来るまで、数時間のタイムラグがあるものの、当時としては「リアルタイム」に近い感覚だ。

それがどうだろう、今ではタイムラグがどんどん縮まってしまった。
メールではリアルタイム性がないとまでいわれるようになった。

そんな記事が以下。

Twitterのリアルタイムは便利だが:それでもメールは生き残る – ITmedia エンタープライズ

 FacebookとTwitterは素晴らしいソーシャルネットワークであり、楽しく(時としてたわいのない)、スピーディーなコミュニケーションを生み出す。しかし企業でこれらのプラットフォームが、Outlook、Lotus Notes、あるいはGmailに取って代わることはあり得ない。

電子メールは非同期の通信方式であり、それが魅力でもある。1日11時間働いて、ようやく仕事から解放されたら、ログオフし、床に就く。そして翌朝、目が覚めたら、電子メールが待っているのだ。

Twitterが面倒くさいなーと思うのは、じつはそのタイムラグの短いリアルタイム性の部分でもある。なんとなく、その反応に一喜一憂してしまうようで、「時間に束縛される」ような感じがする。

SNSのmixiで「mixi疲れ」というのが話題になったことがあるが、Twitterでも「Twitter疲れ」というのが、速報性ゆえに早い段階で起こりそうな気がする。
私にとって「コンピュータはオモチャ」と書いたが、オモチャで遊ぶときの主導権は常に私にある。

だが、SNSやTwitterはコミュニケーション・ツールであるために、自分だけではなく「相手」が存在する。遊び仲間……という見かたもできるが、主導権を完全には握れなくなる。むしろ、オモチャで遊ぶのではなく、「オモチャに遊ばれる」のではないだろうか?

現在のところ、Twitterはかなりの勢いで広がっているようだ。
だが、広がり方が早い分だけ、飽きられるのも早いような気がする。

ネットがコミュニケーションの幅を広げてくれたのは事実だが、仕事上ではなくプライベートでは、そんなにリアルタイム性は必要ない。
気心の知れた友人とは、余裕を持ってつきあいたいと思うからだ。
緊急性を要しないメールの返事が、1週間後でもかまわない。
それぞれに、それぞれの時間があるのだから。

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