環境問題、とりわけ温暖化問題は政治や経済にも影響しているが、それらの問題のとらえ方、報道のされ方を見ていると、なにかしっくりこないものを感じていた。
それは、現在から未来に対する悲壮感や終末観が乏しいことだ。
温暖化の真偽も問われるところだが、その想定が正しいとして、取られている対策では、おそらく焼け石に水、効果は微々たるものだろうと思われる。多少の延命はできても、劇的に解決することは無理そうだ。各国の足並みはそろわないし、排出権取引やカーボンオフセットといった手法は、効果を客観的に計れないし、見せかけだけの方法にしか思えない。
危機だ、危機だといいつつ、世紀末的な危機感はない。
ゴミの分別をしていれば、それでいいのか? エコ製品を買えば、それでいいのか? 背景にある問題の巨大さや深刻さに対して、日常的に取られている対処が、あまりに些末なことに終始している。小さなことからコツコツと……という理屈もわからないではないが、小さすぎるがゆえに、問題を深刻には受け止められないといった弊害もあるように思う。
排出権取引については、効果は期待できないという、以下のような記事もある。
排出量取引、効果は期待薄 ~ 「引き返す」英断も必要だ | WIRED VISION
一見して分かることですが、排出枠(キャップ)の設定が緩いのです。そのため、排出量取引の推進派からは批判が出ています。一方、反対派の人は「ムダなこと」と冷ややかに見ています。
結局、どれだけ排出したか、削減したか、というのは理論値でしかない。机上の空論とはいわないまでも、実際に観測することが困難な対象に対して数字だけが踊っている気がする。
ここでも、終末観が乏しい。
排出権をマネーゲームの道具のひとつにしているだけに思えるし、取引に関わっている人たちが、地球を救おうという使命感に燃えているとも思えない。ビジネスになるかどうか?……でしかないのではないか。
環境問題とは直接的に関係ない記事で、なるほどと感心した記事があった。
ノーベル賞と戦時巨大科学の暗闘(下):NBonline(日経ビジネス オンライン)
私たち当時のハイティーンが持っていた、いわく言い難い「終末観」あるいは「末法思想」みたいなものは、例えばアニメーション「銀河鉄道999」とか「風の谷のナウシカ」のような、迫り来る地球と人類の崩壊に対して、科学の力と高い倫理の志を持って、いかに抗してゆくかという色調に染められています。同じ宮崎アニメでも、冷戦期には魔女が宅急便を運んでいなかったし、崖の上にポニョはいませんでした。
引用元の記事はかなり長いので、全文を読んでもらった方がいい。科学についての記事だが、そのことは経済や世界情勢、環境問題とも深く関わっている。
引用部分にピンと来たのは、アニメのことが例として挙げられていたからだが、ここに「ガンダム」も入れると、もっとわかりやすい。
初代ガンダムも冷戦構造を宇宙に置き換えたものだった。
スペースコロニーという舞台も、巨大科学の産物だ。それは夢であると同時に、輝かしい未来の象徴でもあった。が、そこには戦争という負の遺産も一緒についていた。
今現在放送中の「ガンダムOO」では、対立構造が多極化しているが、それも現実の世界構造を反映している。国家間の戦争ではなく、小さな組織と多極化した国家の戦い……テロ的な戦争になっている。
人類の覚醒といった大きなビジョンはなくなり、より個人的な戦いから戦争を根絶するという目的が示されている。
目的としては壮大だが、やっていることはガンダムによる銃撃戦という小さな戦いだ。軍事拠点をひとつひとつ潰していくことで、戦争を根絶する……ということが可能だろうか?……という疑問。
新しいガンダムにも、終末観は乏しい。
物語の中で、キャラクターの身近な人たちが死んでいくが、世界が終わるかもしれないという、切迫感はない。戦争に明け暮れていても、世界の終わりにはならないのだ。
「崖の上にポニョはいない」
これは、じつに的を射た例えだと思う。
冷戦構造の中での終末観のあった時代にポニョがいなかったというだけではなく、現在の環境問題が叫ばれている状況でも、ポニョは崖の上にはいないのだろう。ポニョは空想の中に……映画のおとぎ話の中にいるだけだ。
古き良き時代を思わせるポニョの世界は、リアルな世界とは乖離している。そこにノスタルジーを感じるとしたら、それは失われた世界だ。
ゴミの分別をせっせとして、節電をせっせとしていても、ポニョは崖の上にはやってこない。ナウシカは世界を救おうとしたが、ポニョは男の子に恋をしただけだ。
終末観とは無縁だ。
環境問題への小さな取り組みを続けていって、その先にあるものが見えない。
ほんとうに地球環境は危機的なのか?
ポニョの無邪気な笑い声が、響いているだけのような気もする。