教科書デジタル化の行方

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教科書デジタル化の行方

新設されたデジタル庁の平井卓也デジタル改革担当相は、成果を出そうとがんばっているようなのだが、いささか先走りすぎのような気がする。

とりあえずやってみる……ということかもしれないが、笛吹けども踊らずにならなければいいのだが……。

教科書、原則デジタル化を 平井担当相「時代の要請」 | 共同通信

平井卓也デジタル改革担当相は6日の閣議後記者会見で、小中学校で使う教科書を原則デジタル化すべきだとの考えを示した。2日に河野太郎行政改革担当相を交えた3者会談を行い、萩生田光一文部科学相に提案。国が進める1人1台のパソコン配備などの環境整備を前提に「デジタルファーストは時代の要請だという共通認識を持てた」と明らかにした。

平井氏は記者会見で、子どもたちが端末に習熟するきっかけになるとの期待感を示した上で、教科書を「何冊も抱えて移動するよりはパソコン1台のほうがいい。効率性を考えたときにプラスだ」と説明した。

生徒に1人1台のパソコン配備も掲げているが、今さら感がしなくもない。
パソコン(昨今ではPCという)が一般に普及するようになって、かれこれ40年になろうとしている。パソコン初期時代(1980年代〜90年代)は、日本製のパソコンが市場を席巻していた。このころから1人1台の施策をしていれば、今ごろはIT大国になっていただろう。

しかし、現実はパソコンは一部の技術者やマニアの範囲にとどまり、パソコンを使えないオジサン・オバサンを量産しただけになった。親が使えなければ子も使う機会がないから、PC音痴が受け継がれていく。

「時代の要請」というのは遅きに失している。3周か4周くらいの周回遅れだね。
それでも、やらないよりはやった方がいいとは思う。
ただし、どこまでできるのかが問題。

PCを使いこなせる教師は少ないようだから、まず教師がPCを学ぶところから始めないといけない。ここからして出遅れている。家電ショップに行けば、PCはたくさんあったにもかかわらず、1人1台でなくても、1家に1台を導入していれば、PCが当たり前にある環境は作れていたはずだった。

教育環境でのPCの活用やデジタル化は、20年遅かった。
21世紀が到来したのに、未来を見据える長期ビジョンがなかったということだ。
いわば、IT時代の失われた20年ともいえる。

ちなみに、私が最初に使ったパソコンは、NECのPC-6601(1983年)だった。
PC-6601
その後、PC-98シリーズを何台か乗り換えて、Macintosh LC 520(1993年)からMACユーザーとなり、Power Macintosh〜Mac互換機〜Intel Macと、MACだけで6台乗り換えて今日に至る。また、現在はWindows 10の3Dレンダリング用マシンも使っている。

教科書のデジタル化は、端末となるPCやタブレットがなければ意味がない。
個々に端末を用意すると、メーカーやOSがバラバラになってしまって、使い方も違ってしまう。学校側が用意するとなると、メーカーの選定などで利権が絡んできそう。大人の事情が入りこむと、本当に必要なものがないがしろにされるかも。

学校でPCやタブレットを使う場合、全生徒が一度に通信でアクセスするとなると、その負荷と処理をこなせる通信環境を構築する必要がある。
1クラスが30〜40人くらい、1学年が3クラスあれば、小学校で540〜720人、中学校で270〜360人となる。それだけの生徒がアクセスしてパンクしない通信環境は、なかなか厳しいと思う。
余談だが、私の中学時代は1学年が8〜10クラスもあるマンモス校だった(^_^)b

また、停電や通信環境がダウンしたときの危機管理も重要だ。
停電したらPCはただの箱になってしまうから、デジタルの教科書や参考書しかなかったから、授業ができなくなってしまう。停電では電子黒板なども使えない。
停電は災害時に起こるだけでなく、最寄りの変電所での事故や火災によっても起こりうる。もしものときに備えて、自家発電設備が必要かもしれない。

タブレットは充電してあればしばらくは使えるが、通信環境がダウンしたら、タブレットの内部に保存したデータしか使えない。この場合も授業に支障が出るだろう。

デジタル化のメリットもあるのは確かだが、デジタル教科書だけにすることのリスクもある。
紙とデジタルの教科書の使い分けは必要だと思う。

なんでもかんでもデジタル化すればいいという、短絡的なことでは失敗する。
目先のことだけやってる感じで、長期的なビジョンが見えない。
うまくいくのかな?……

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