「ゼロリスク信者」を生み出した科学の責任

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「ゼロリスク信者」を生み出した科学の責任

緊急事態宣言が解除されて、いくぶん平穏になった世の中だが、「第二波に備えて」とのかけ声で、相変わらず過度なマスク着用や自粛ムードは続いている。

新型コロナ問題が表面化した当初から、私は「騒ぎすぎ」と書き続けてきた(2020年1月31日のエントリ)。TVのワイドショーは、芸能人のスキャンダルを追うのと同様、新型コロナ騒動を過剰なまでに恐怖感をあおってきた。

これは一種の洗脳であり、恐怖感の刷り込みだ。
それがパニック行動を呼び、心配しなくてもいいトイレットペーパーの買い占めが起こり、マスクの買い占めが高額転売をされるという事態に発展した。

そうした社会や人々の過剰反応を引き起こすのに一役買ったのが、「科学的エビデンス」だった。
専門家がこういっている……というお墨付きが、やりすぎとも思える行動を正当化してしまった。

西浦教授の数理モデルは役に立たなかった」に書いたが、西浦教授のとんでもない死者数予測が、恐怖感を助長してしまった。科学的エビデンスという観点からいえば、教授の数理モデルは前提が違っていたために、答えも間違っていたというのが、結果論だ。つまり、科学的エビデンスではなかったのだ。

この間違った科学的エビデンスを元にした対策(8割減という目標)と、要請という名の強制によって、社会と経済活動は大混乱と大ダメージを受けることとなった。教授に悪意はなかったにしても、もたらした影響は深刻で残酷だ。

感染者数と死者数が、毎日報道され、何人増えたと一喜一憂した。
過去記事にも書いたが、インフルエンザではこんなことはされないし、数千人が死んでも誰も見向きもしない。
「新型コロナ」という一種のブームが、騒ぎを大きくした。

そして、「ゼロリスク信者」と呼ばれる、横暴な人々が表面化してきた。

正義という名の棍棒を振り回す「ゼロリスク信者」たち(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

「いま、私たちの生活は大きく変わりつつあります。『大切な人を死なせない』という言葉を錦の御旗に、人々の行動が『良い』『悪い』の二つにはっきりと判別されるようになりました。

感染者を一人も出さないことが、絶対的な正義であるかのような価値観も生まれています。この価値観は、残念なことに日本人の間で差別と排除を生み出しています」

こう語るのは、医療人類学者の磯野真穂氏だ。医療人類学とは、生きる上で抱える心身の不調を人間がどのように理解し、対処するのかを社会的な観点から研究する学問だ。

(中略)

当たり前のことですが、人は必ず病気になります。どんな病であっても感染リスクからは絶対に逃れられません。

そもそも、なぜ新型コロナに感染してはいけないのでしょうか。いま世間に根付きつつある『絶対に感染してはいけない』という考え方に違和感があります。エボラ出血熱のように致死率が高いわけではありません。過度に感染を恐れて行動を制限するほうが危険です」

(中略)

「高齢者がベッドに拘束された結果、歩けなくなるなど身体に不調をきたすことを廃用症候群といいます。いまのままでは、社会全体がそんな状態になりかねません。

インフルエンザの感染者数は国内で推定1000万人、死者は1万人と言われています。でも、その事実を知っても私たちは生活を止めようとは思わない。なぜなら、そのリスクをある程度回避しつつ、受け入れることも許容しているからです。生きるということは、不測の事態とともに生活することなんです。

毎日のように各国や各都道府県の感染者数が報じられています。まるで、感染者を増やさないことは国や自治体の威信の問題であるかのようです。

(中略)

「いま、新型コロナ対策に役立たないものは、すべて『不要不急』だと言わんばかりの世論が形成されています。

しかし、不要不急と言われた場所で仕事をしている人がいる。その人たちにとっては『必要火急』なんです。切り捨てられてしまえば、倒産や自殺さえありうる。

人には様々な生活があるのに何が不要で何が不急かが、ある疾患にかかるか否かの医学的視点だけで決められ、それが道徳となってしまうことは社会に禍根を残します。

感染症の拡大を阻止するのか、それとも経済的なダメージを低減することを優先するのか。こう語られることが多いですが、どちらも命にかかわる問題です。

感染拡大の抑制だけが社会に平和をもたらすわけではありません。新型コロナが炙り出した歪な『正しさ』を見直さなければ、ますます生きづらい世の中になってしまいます」

ようやく、新型コロナ騒動に対して、冷静な意見が出てくるようになった……と思わせる記事。これまでは「自粛」の名のもと、異論を唱えるのははばかられた。

「自粛、要請、不要不急」と、呪文のようにいわれ続けた2か月あまり。
あれはだめ、これもだめ、それもだめ……と、なんでもダメだし。その「ダメ」の根拠とされたのが、科学的エビデンスでもあった。中には、科学的に怪しい根拠もいろいろとあった。

記事中で指摘された「正義」を正当化させたのは「科学」でもあったのだ。
専門家会議やTVに出てきた専門家たちは、自分たちの知見を披露しているだけだが、その発言が過剰なゼロリスク信者に正当化の口実を与えてしまった。

西浦教授の展開する理論に、異論を唱える人もいたが、西浦教授の「42万人死亡」「8割減」というメッセージは、強烈なインパクトがあったために、異論の声はかき消されてしまった。結果的に、科学的エビデンスとはいえない説が採用されて、やらなくてもいい過剰な対策を実行することになった。

それによって、廃業した店舗や失業した人たち、生活困窮者になってしまった人々がいる。経済的困窮などで、自殺する人も出てくるだろう。
その責任の一端は政治や行政にあるのだが、対策の判断に至る過程で科学者の意見が関わっていた。政治的意思決定に影響を与えた専門家たち(科学者)にも、一定の責任はあるのではないだろうか。

「ゼロリスク信者」は、いまなお、うごめいている。
その顕著な例が、9割以上のマスク着用だ。同調圧力という、目に見えない呪縛で、マスクをしていないと周囲の目が恐いのだ。
熱中症の恐れもあるから、適宜外すようにと呼びかけもされているが、なかなか外せないらしい。

自家用車にドライバーがひとりで乗っているのに、マスクをしていたりもする。
そのマスクはなんのため?
マスクで感染予防が理由ではなく、みんなに合わせてマスクをする……と、目的と意図が変わってしまっている。あげくに通気性のいいマスクなんていう、マスクの機能を無視したものまで出てきた。

みんな、おかしいぞ!

世の中が新型コロナで変わったといわれるが、私に言わせれば狂っている。冷静な思考ができなくなっているように思える。
科学的エビデンスはどこへやら、非科学的なことがあふれている。

科学は正しいことばかりではなく、ときには間違った方向に社会を走らせてしまう。
「ゼロリスク信者」を生み出したのも、科学の責任だと思う。

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