今日も暑い。
カレンダー上は8月末なので、「残暑」と呼ばれているが、今年は梅雨明けが8月になったのだから、「夏」の本番が遅かった。その分、夏のピークは今なんじゃないかと思う。
会社は3階にあり、窓から通りを歩く人たちが見える。
前にも書いたが、みんなマスクをしている。屋外でマスクをすることの必然性はないにもかかわらずだ。街を歩いていて感染した、クラスターが発生した、という事例はひとつもない。
新型コロナよりも熱中症を心配してしまう。あるいは、交通事故に遭う確率の方が高い。
猛暑の中でのマスク姿は、社会の無知と愚かさの象徴のように思える。
マスクをしている人たちは、「みんながしているから」「マスク警察に出くわしたくないから」などという、社会的な目に見えない圧力に耐えられなくて、したくもないマスクをしているのだろう。ある調査では、そういう理由が多かった。
人々は、嫌々ながらも、社会の無知と愚かさに同調することを選んだ。
赤信号、みんなで渡れば恐くない……ということか。
しかしながら、「マスクが正義」というマスクを過信するマスク信者が、少なからずいるのも事実。
前エントリの『「富岳」のシミュレーションで布マスクは7~8割の飛沫を防御』で書いたが、7割は防げても3割は漏れるマスクを、絶対と信奉しているのだ。
たとえ話をすると……
ここに防弾チョッキがある。
性能は、7割は防げるが、3割は貫通する。これを着ていれば、銃弾の雨の中でも、7割は防御できます。
着ないよりは着た方が安全です。
……と、あなたはこの防弾チョッキを信頼して着るだろうか?
3割貫通するということは、被弾率3割、つまり3発に1発は貫通して致命傷を負うことになる。
たしかになにも着ないよりは、被弾する確率は下がる。これしかないのなら、これを着る方がいい。
しかし、もっと防御率の高いものがあるとしたらどうか?
少々価格的に高いが、防御率98%の防弾チョッキがある。だとしたら、迷わず高性能なものを選ぶだろう。なにしろ命がかかっているのだ。
このたとえ話には裏技があって、
「じつは銃弾の雨を浴びなくてもいい方法があるのです。しかし、その方法は社会的に大きな代償をともなうので、簡単ではありません。あなたたちに、その代償を払う覚悟はありますか?」
その代償とは……という話(^_^)
マスク着用を求める政府や行政は、7割しか防御の保証がないものをつけて、感染を防止しろといっているわけだ。政府が配布した布マスク(アベノマスク)は、7割防御すら怪しいものだった。まるで戦時中の竹槍のように。
マスクにも防御率の高いものがある。N95マスクがその一例だ。
しかし、行政も専門家も、そのマスクを指定することはなく、種類を問わずマスクをしていればいいということで済ませた。
最近みかけるようになったのは、スカーフのようなもので目から下を覆っているタイプ。イスラム女性がつける顔を覆うチャドルにも似ている。これをマスクと呼べるのかどうかは疑問だが、口元を覆っているので、「マスクしているポーズ」にはなるのだろう。ようするに、マスクをすることの目的が、口元を隠すことになってきたように思われる。
芸能ニュースでは、あるお騒がせ芸能人が、懲りずに宴会で飲み歩いている様子を伝える中で、マスクをしていないことを非難していた。このように、マスコミ自らが自粛警察・マスク警察をやっているようでは、一般人の同様の行為を非難はできない。その現場の写真を見る限り、マスクをする必要があるとは思えなかった。
「マスクが正義」という風潮は、自分たちの首を絞めるだけだ。
8月は戦争体験を伝える番組や記事が多くなる。
戦時中の様子を見聞きしていると、当時の「空気」が、今のコロナ禍の「空気」と似ているように感じる。爆弾は降ってこないものの、感染という恐怖が社会的ストレスになっている。政府が打ち出す対策は遅く、ときに的外れで、まるで大本営である。かけ声だけは勇ましいが、国民に提供した武器はマスク2枚と10万円だけ。これで敵と数ヶ月以上を戦えという。当初は10万円すら出し渋っていたわけで、根性で玉砕しろといっているようなものだった。
新型コロナに感染した人たち、あるいは感染が疑われる地域の住民に対して、差別や排斥をする事態も起こっている。アメリカの人種差別もひどいが、日本の差別や偏見もかなりひどい。マスク姿が、KKKの白頭巾のようにも思える。マスクで顔を隠すことで、一種の匿名化を実装したマスカーたちは異様ですらある。
新型コロナは、愚かさの踏み絵となった。
踏んだものはマスクをつけてマスク教団の一員となり、拒んだものは村八分でバッシングされる。
「これはおかしい! 異常だ! 間違っている!」と叫んでみても、耳を貸すものは少ない。
科学的に正しい行動を取ろう……といわれつつも、実際には多数派の意見が通っているだけ。正しくても少数派の意見は、尊重されることはなかった。
“アンチGo To キャンペーン”はやめてほしい、BSEや新型インフルを繰り返してはいけない…宮沢孝幸・京大准教授が訴え | ABEMA TIMES
「感染者の傍にいるとすぐ感染してしまうようなウイルスではない。だから感染者がどんなに周りに居ようとも、感染メカニズムさえ理解し、注意すれば感染から逃れることができる。そういう私たちの言葉を無視して突き進んでしまったのは非常に残念だ。
(中略)
そう話す宮沢氏が指摘するのが、「リスクを正確に計算する」ということだ。
新型コロナウイルスによる死者数(25日0時時点)は100万人あたり9.5人と、熱中症(2018年)の12.5人、インフルエンザ(2019年)の28.3人、交通事故(2019年)の34.0人となっている(出典:総務省統計局、厚労省)。
「確かに1000人以上の方が亡くなっていることは大きいが、全体を見ればリスクは低いということだ。例えばお風呂の中で大勢の人が亡くなったからといって、“お風呂止めますか?”という話にはならないと思う。
(中略)
改めて宮沢氏は「結局、これも僕の力不足だったかなと思っているが、BSE(狂牛病)の頃から同じことを繰り返しているように見える。BSEに関しては死者がゼロだったが、マスコミがさんざんに煽った結果、経済面で多くの人が犠牲になってしまった。新型インフルエンザの時も含めると2回のチャンスがあったのに、NHKも含めて一切検証・総括してこなかった。政治家たちも専門家たちも、自己正当化してはいけないのに、自己正当化した。責めることはできないが、繰り返してはいけない。今回で3回目だ。国民はもっと怒った方がいいと思う」と強調した。
宮沢氏の無念さがにじみ出ているように感じた。
政府としての意思決定に大きな影響を与えた専門家会議や対策班の専門家たちは、間違ってはいないが異なる解決方法へと導いた。ありえない被害想定によって、新型コロナは巨大な怪獣のように扱われ、人々に必要以上の恐怖心を植え付けることになってしまった。
この意思決定過程もまた、大本営をイメージさせる。正確な情報と的確の分析によって判断するのではなく、漠然としたイメージだけでスローガンとパフォーマンスだけがひとり歩きした。マスコミはパニックをあおることに夢中になり、ヒステリックに騒ぐばかり。それも戦時中の新聞報道に似ている。本来、もっとも冷静で事実を客観的に分析する役目のはずの報道機関が、血迷ったかのように冷静さを失ってしまった。
私は新型コロナ騒動は始まった2月頃から、「騒ぎすぎ」「怖がりすぎ」と書き続けてきた。
3月〜4月になると、マスク信者が増え続け、マスク警察が出現するまでになった。
マスカーの増加とともに、社会はおかしくなっていった。
「リスクを正確に計算する」というのも、私は度々書いてきた。新型コロナのリスクは、それほど高くないと。世界的には死者数規模は大きくなったが、日本では奇跡的に少ない。それには理由があるはずだが、まだ誰も解明していない。それが今後のためにも重要なことなのに。
毎日の新型コロナの感染者数報告は、いつまで続けるのだろうか?
ゼロになるまで?
ゼロリスクでなければいけないという、強迫観念にかられている気がする。
しかし、ゼロを目指しているのなら、対策としては中途半端という矛盾。
ゼロリスクが命題ならば、空気感染を考慮にいれなければ意味がない。
そうなると、マスクはN95マスク限定で、ソーシャルディスタンシングは10メートル、電車・バス・飛行機などの公共交通機関は感染拡大の足になるからすべて停止、県境を越える移動も禁止、飲食店はクラスターの発生源になるからすべて営業停止、学校はすべてオンラインのみ、5人以上の集会は禁止、海外からの入国もすべて禁止……というようなことをやらないとゼロにはならないだろう。これでは、どこぞの独裁国家がやりそうなことだ。
社会を正常な状態に戻すには、割り切りが必要だ。
リスクを受け入れるのだ。
これまでだってそうしてきたではないか。
宮沢氏がリスクの一例として挙げた、熱中症、インフルエンザ、交通事故で、毎年数百〜数千人が亡くなっているが、たまにニュースになる程度で、多くの人は気にも留めなかった。インフルエンザでは、毎年1000万人が感染して1万人(超過死亡を含む)が死亡していたが、緊急事態宣言が出されることはなく、マスクを強要されることもなく、飲食店は普通に営業し、イベントやライブコンサートは盛んに行われていた。
新型コロナも、もはやインフルエンザと同等でいいと割り切るしかない。日常として「新型」を取り払って、「コロナ19」として数ある風邪のひとつとして受け入れる。
などと、私がいってみたところで、世の中は1ミリも動かない。
同調圧力の激流に抗いながら、
「君たちは狂っているぞ!
そっちに行ったら危険だ!
正気を取り戻せ!」
……と、叫んでみるが、耳を貸す人はほとんどいない。