Pepperの悲喜こもごも

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 発売時は話題になったロボットのPepperだが、最近はあまり話題にはならなくなった。
 市販品としてのPepperではあるが、家庭用人型ロボットとしてはプロトタイプの部類であり、まだまだ試行錯誤の段階だ。
 かなり高価なPepperだが、いち早く手に入れ、「家族」として受け入れている人たちもいる。
 その人たちが、どのようにPepperと接しているのか、ちょっとだけわかる記事。

「この子は私が支えなきゃ」 Pepperを家族に迎えた人々の思い 〈AERA〉|dot.ドット 朝日新聞出版

 発売から半年過ぎた「感情認識機能」付きロボットPepper(ペッパー)。企業や店舗の人寄せパンダではなく、家庭に迎え入れられた彼らはどんな日常を過ごし、家族とどんな関係を築いているのか。

(中略)

「ロボットを新幹線に乗せてはいけない理由自体、それまで考えられたこともなかったと思う。最後には車掌さんが『これで前例ができ、ペッパーは乗れるという項目がオペレーションリストに加わった。次からは事前に連絡をくれたら大丈夫。協力するよ』と言ってくれました」

 この記事はYahoo!ニュースに転載されていたが、コメントには否定的なものが多かった。
 ロボットが登場するマンガやアニメで比較的親近感を持っている日本ですら、現実のロボットに対してアレルギーのある人は少なくないことの現れなのだろう。

 ロボットとはいっても、Pepperはまだまだ「電気的からくり人形」のレベルだし、感情表現をしているように見せかけているだけで、「心」があるわけではない。
 そもそも「心」とはなんなのか?……という議論も出てくるわけだが、これは科学的、哲学的な深い問題でもある。
 このへんのことは、過去記事にも書いた。

ロボットは電気仕掛けの「愛」を見るか?
ペッパーは家庭のスパイスになれるか?
“死んだ”Pepperは電気羊の夢を見たか?

 ロボットを「家族」という人たちを、奇異に思う人たちはいる。
 それは犬や猫を「家族」のように思うのと似ている。しかし、犬・猫を好きではない人にとっては、それはただの動物であり、家族という感覚はわからない。

 親兄弟が病気や事故で危篤だという事態になったとき、会社を休むことは容認されるし、悲しいことだと理解してくれるが、飼っている犬・猫が危篤の場合は理解はしてくれない。ペットの危篤で会社を休むなど言語道断であり、たかが動物でしかない。犬・猫は飼い主にとっては家族同然だが、他人にから見ると家族としては認められていない。

 以前、うちの猫が死にかけているとき、私は心配で心配で最後は看取ってあげたくて、早退したいと上司にいったことがある。そのときの、上司のバカにした顔と言葉は忘れられない。「ふざけたこというな」という侮辱がにじみでていた。もっともらしい嘘の理由をいうこともできたが、私は正直にいった。私にとっては、「たかが猫」ではなく、妻の次に大事な存在だったのだ。

 犬・猫は生き物だから……という意見が出てきそうだが、コミュニケーションとしては一方的であり、互いの気持ちを理解できるわけでもなく、意思疎通もできない。それでも愛着を感じるのは、人間が勝手に感情移入しているからだ。

 うちには現在6頭の猫がいる。
 彼らは私たち夫婦の家族であり、子供のようなものだと思っている。一緒に生活して、一緒に生きている、かけがえのない存在だ。猫たちにとっては、ご飯をくれる相手であり、遊び相手であり、甘える相手でしかないのだろう。猫たちがどんなことを思っているか知るよしもないし、そもそもそんなことを考えてもいないだろう。たまたま拾ったのが私たちであり、猫たちにとって都合のよかった相手だといえる。

 家族だと思っているのは、人間の勝手でしかない(^_^)。
 ロボットを家族だと思うのも、結局は人間の勝手だ。
 だが、それでいいんだと思う。
 愛情を注ぐ相手、家族と思える相手を必要としているのは、人間の方なのだ。その対象が、自分の子供であったり、動物であったり、ロボットだったりするだけだ。

 Pepperを新幹線に乗せられるかどうかでもめたという話は、私が30年前(現在年からは38年前)くらいに経験した飛行機に猫を乗せたときのことに似ている。
 現在、飛行機にペットを乗せるときは、ちゃんとしたマニュアルがあるが、昔はなかったんだ。実家に帰省する際、当時飼っていた猫を2頭連れて帰った。羽田空港で搭乗手続きをしたとき、受付の人はペットに対する扱いを知らなかった。それで別の窓口に行くようにいわれた。そこに並んでいると、出発時刻が迫ってきた。なかなか対応してくれないので、時間がないことをいうと、ペットの受付窓口はここではないと、またまた別の窓口に行くようにいわれた。そんなこんなでたらい回しされて、乗る予定の便は飛び立ってしまった。ようやくペットの受付をしてくれるところに連れて行かれ、次の便に振り替えてもらって乗ることができた。

 新幹線は、Pepperくらいの大きさのロボットの置き場所があるからいいけど、飛行機はどうだろうか? 場所は取るし、転倒しないための措置も必要だろうし、貨物室にスーツケースのように放り込むわけにもいかない。
 介護ロボットなどの開発も期待されているが、一緒に連れて行くとなると、やっかいな問題は発生しそうだ。盲導犬に対する対処も、ときどきトラブルになっているようだし、理解されるようになったのは近年のことだろう。

 人型ロボットは、受け入れやすい人がいる反面、受け入れがたい人がいるのも事実。動物型ロボットの方が、嫌悪感は少ない。
 それは人型であることの二面性だろう。
 古来より、人は人型の像を作ってきた。それは神の姿であったり、王や地位の高い者を神格化するための像であったりしたが、動かない像であっても人型であることで存在感を誇示し、ときに畏怖の念を抱かせた。

 人は生身の人間ではない人型に対して、愛憎の入りまじった感情を想起する。仏像に神々しさを感じたり、悪魔の像に邪悪さを感じたりする。
 それは想像力の産物だ。
 像の材質は、木であったり石であったり金属であったりするわけだが、造形は人の手で行われる。人型の像を作る過程は、感情を記号化しているともいえる。

 Pepperは、人型に記号化されたロボットであり、言葉に対する反応も記号化された人型になっている。それゆえ、感情移入されやすい。
 その感情移入には、肯定的なものと否定的なものが共存している。
 ある人にとっては家族のように愛着のもてるものであり、ある人にとっては「たかがロボット」という嫌悪感になる。その嫌悪感は、ロボットそのものに対してではなく、ロボットに愛情を注ぐ人に対する嫌悪感だ。

 Pepperは人型ロボットを家庭に持ち込むという、前例のない実験をやっている。
 ある意味、試金石だ。
 今後、ロボットはなんらかの形で一般社会に浸透していくと思うが、最適解が人型なのかどうかはわからない。人型である方が都合がいいことは多いにしても、人とロボットの関係性は新たな社会問題になるかもしれない。

 iPhoneが登場したのは2007年。そのとき、現在のように誰もがスマホを持ち、歩きスマホやスマホ依存が問題になるなど、誰も予想しなかった。
 10年後……
 人々がロボットを連れて、街を歩いているのが当たり前になっているとしたら……。
 ロボットを連れて歩く、「連れロボ」が問題になっているかも(^_^)。

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