ゾンビブームなのかどうかは疑問なのだが、ゾンピに眉をひそめることなく浸透しているとはいえるのかもしれない。
現代の死生観の歪みのような気もするが……

襲われたい?ゾンビがブーム VRに小説、イベント続々:朝日新聞デジタル

 ゾンビがブームだ。ドラマや映画は、もはや定番。ゾンビイベントが人気を博し、芥川賞作家の小説まで登場した。なぜなのか?

(中略)

日本も発信源だ。96年発売のカプコンのゲーム「バイオハザード」は02年にハリウッド映画になり、これまで6作が公開。昨年上映された「アイアムアヒーロー」のように、ゾンビものの邦画も今や珍しくない。

(中略)

「終末世界ものの良さは、ちょっと謙虚になれること。好きな人は好きだけど、興味の無い人には伝わらない。純文学にもそういうところはある」

純文学についての自虐的なところに苦笑してしまった。

バイオハザードが例に出されているが、ゾンビが……というより、もはや死人なので、バンバン撃ち殺しても殺人にはならないから、ためらいなく銃を撃てる爽快感だと思うけどね。

バイオハザード:ザ・ファイナル (字幕版)

つきつめると、ゾンビは生きてるのか死んでるのか?……の問題は、科学考証的には微妙だ。
一度心臓が止まり、「死んだ」はずの人間や動物が、再び活動を開始する。体を動かすために脳が機能し、神経系で筋肉を動かし、エネルギー源として血液を循環させる必要があるから、心臓も拍動しないといけない。そのシステムを考えれば、「生きている」と解釈できるのだが……。

「生」と「死」の境界線は、どこにあるのか?

ゾンビは「死」を意味してはいるものの、リアルな「死」ではない。
笑い飛ばせるようなレトリックとしての「死」なのだろう。
身近ではない「死」
フィクションの「死」
コスプレとしての「死」
ゲームとしての「死」
リセットボタンを押せば、蘇られる「死」

世の中、悲惨な事故や事件は毎日のように起こっているのだが、自分の身に降りかかってくることは希だ。
「死」は近いようで、遠い。
多くの人にとって、「死」はリアルではなくフィクションになっている。いつか、自分も死ぬのだが、そのときが来るまで実感はない。
だから、「死」をモチーフとした娯楽で楽しむことができる。その「死」が作り物だとわかっているから。

NHKで放送された宮崎駿監督のドキュメンタリーで、CGで作られたゾンビの映像に対して、監督が「生命に対する侮辱」と怒りを露わにしていたのを思い出した。
参照→「宮崎駿監督「ブチ切れ」説教 ドワンゴ川上量生氏に「極めて不愉快」
その映像を作った若者たちは、面白がってゾンビを題材にしていたわけだが、彼らにとって「死」はゾンビというキャラクターのパラメーターにすぎない。「死」についてあれこれ考えた結果の、ゾンビではないのだ。

昨今のゾンビブームとやらも、同じ感覚なのだろう。
リアルに「死」を感じられないから、彼らにとっては「死」は遊びでしかない。特に、平和ボケしている日本では、「死」は自然災害などがもたらす希有なケースという感覚なのではないか?

うがった見方をすると、「命」の重さが軽くなったのだと思う。
死ぬまでイジメたり、死ぬまで働かせたり、安全よりも経済性、個人よりも組織を優先したり、弱者を切り捨てたり……。
ゾンビは、「普通」から脱落したものの化身ともいえるかもしれない。

ゾンビは噛まれたりすると感染するという設定だ。
原因はウイルスとか血液とかだったりするが、一種の感染症ともいえる。
致死率の高い感染症によるパンデミックの可能性も懸念されているが、ゾンビ化を致死性ウイルスによるものと仮定すると、感染したからと撃ち殺していいのかどうか……と考えると、ゾンビのゲームや映画は恐い世界である。

娯楽としてのゾンビではあるのだが、背景には差別や格差、異分子を排除するポピュリズム的な風潮が潜んでいる……と想像するのは、飛躍しすぎだろうか?

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