「紫陽花革命」の幻想が現実にならない理由

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ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」

ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」

 マスメディアではあまり大きく取り上げられていない感のある、原発反対の「紫陽花革命」といわれる運動のようなもの。
 日本では暴動や大規模なデモが起きにくい時代になって久しいが、数万人が集まったというだけでも変化の兆しなのかな?……と思わないでもない。
 かつて、安保反対運動があった時代。
 私はまだ子どもだったが、大学で機動隊と衝突して火炎瓶と催涙弾が飛び交っていたテレビの映像は鮮明に覚えている。当時の私には、なにが起こっているのか理解はできなかった。過激派と機動隊の戦い……主義主張ではなく、炎と白煙にまみれた様子……くらいにしか見えなかった。
 良し悪しは別にして、あの当時は政治や社会に対する不満が、暴力という実力行使に訴えるだけの背景があったと思う。一部の人たちではあったが。

 「紫陽花革命」といわれてもピンと来ない。
 どこかバーチャルで、革命という言葉が軽い。○○革命という言い方は、比喩的にいろんな場面で使われるが、実際に命を賭けた、血が流れるようなことではない。……日本では。
 これに関連した記事が以下。

「紫陽花(あじさい)革命」という幻想 : アゴラ – ライブドアブログ

首相官邸前に大飯原発再稼働に反対する大規模なデモが行なわれました。組織的なデモではなく、ソーシャル・ネットワークの呼びかけで多くの人が集まったために、中東の「ジャスミン革命」に倣い、季節柄「紫陽花(あじさい)革命」と名付けた人もいます。
しかし「革命」とはほど遠く、「運動」としても発展性を感じません。なぜなら、原発再稼働に対する不安感や不信感以上のものが伝わってこないからです。政治に自らの行動で意思を表明しようとしたことはいいことかもしれませんが、紫陽花(あじさい)が長く美しさを保てないように、情緒だけで広がった運動はやがて消えていきます。しかも、政治の世界で「革命」というのなら権力を奪うという話になりますがひとつの政策への賛否であって違和感があります。実際にチュニジアやエジプトでは政権が崩壊しました。

 中東の「ジャスミン革命」も、根底の部分は「政府に対する様々な不満」であり「貧困」であったはずだ。国民の大部分が裕福であれば、政治体制が独裁であっても革命にはならなかっただろう。政権を革命で倒せば、民衆の不満は解消されるはず……という幻想というか理想があったのかもしれないが、現実には権力者が入れ替わるだけで、一晩で根本的な問題が解決するわけではない。
 「ジャスミン革命」が革命たりえたのは、多くの人の血が流れ、命が犠牲になったからだ。だから「革命」という。そして、その革命を実力行使できたのは、武器があったからだ。人々が銃を手に、支配者に立ち向かった。

 「紫陽花革命」は革命にならない。
 人々は命を賭けていないし、銃を持たないからだ。
 言論による無血革命が可能だというかもしれないが、それこそ幻想だろう。革命とは、ごく短期間のうちに、強制的に権力を奪い取ることだ。そこには暴力が介在する。話し合いで決着するような権力委譲は、理想論でしかない。
 「紫陽花革命」を本物の革命にするには、権力と戦う術を持たないとだめだろう。ただ行進したり座り込んだりするだけでは、邪魔者扱いされて排除されるだけ。
 「力」には「力」で対抗する。その力が、権力者にとって「脅威」になるような「力」だ。
 SNSが「力」になりうるかというと、政府を転覆するほどの力にはならないだろう。ネット上でどんなメッセージが飛び交ったところで、権力者にとっては痛くも痒くもないからだ。
 銃弾が飛んでくれば別だ。「ジャスミン革命」はSNSが道具として重要な役割を果たしたが、権力者が恐れたのは銃弾が飛んでくることだったはずだ。運動を起こした人々は、反政府勢力として銃を向けられ、命を賭ける必要があった。
 その結果、権力者は殺されたり投獄されて、権力は新しい支配者に委譲された。
 「革命」という言葉の誤った使い方、命を賭けるという覚悟のなさに、日本的な甘さを感じる。

 原発のことについていえば、原発反対もいいが、それならば相応の覚悟が必要だろう。
●原発を廃止できるなら、停電してもよい。
●原発を廃止できるなら、電気料金がどんなに高くなってもよい。
●原発を廃止できるなら、社会的弱者を犠牲にしてもよい
●原発を廃止できるなら、企業が倒産して失業者が増えてもよい。
●原発を廃止できるなら、さらに不景気になってもよい。
●原発を廃止できるなら、ネットやケータイが使えなくなってもよい。
●原発を廃止できるなら、エネルギー消費レベルが50年前に戻ってもよい。
 ……等々、起こり得るあらゆるデメリットを、甘受する覚悟を持つ。
 なにかを得るには代償が必要だ。
 等価交換……ではないが、原発のない社会を実現するには、代償を払わなくてはならない。現在の社会が、ここまでエネルギーを大量に消費できるようになったのは、原発というリスクを代償に払ってきたからだ。

 大飯原発3号機が再稼働を始めたが、その根拠となっている「安全宣言」はじつに曖昧だ。
 そもそも安全宣言を出すこと自体がおかしい。
 事故は事の大小を問わず必ず起きる。なぜなら、事故とは、想定外の事態に遭遇するから「事故」なのだ。設備に問題はなくても、ヒューマンエラーは絶対に起きる。人間はミスをするものだ。ミスをしない人間など存在しない。ボタンを押し間違えて、事故を誘発することは、これまでもあったではないか。
 事故はいずれ起きる。問題は事故が起きたとき、どういう対処ができるかだ。被害を最小限にするために、どういう方法があるのか?……ということ。
 また、「安全宣言」を出した人たちは、どういう責任を取るのかも不明確だ。命を賭けられるだけの自信があったのか? もし、事故が起きたときは、関電の社長や担当大臣は切腹でもして責任を取るのか? そこまで言えるだけの自信があるのなら、安全宣言の重みは増すかもしれない。政治生命を賭けるくらいでは、責任の取り方は軽すぎる。議員を辞めても、生きていけないわけではない。
 「安全宣言」を判定した人たちにも、覚悟がない。どこか他人事だ。
 事故は起きる……という前提で、物事を進めなくてはならない。

 根拠のない「安全」を保証するのではなく、「リスクがどれだけあるか」を問題にしなくてはならない。
 地震の場合、今後30年以内に大地震が来る……というリスクの予想をする。その想定から、災害対策をしているわけだ。
 原発も同じこと。
 今後10年稼働すると、深刻な事故が起こる確率は何%なのか?
 0%でないことは確かだ。1%なのか10%なのかで、取るべき対策は違ってくる。
 それを想定して、稼働のリスクを背負い、対策をするしかない。

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