このところ毎年、成人式の狂騒とあり方が問われている。
ニュースでは、ことさらに問題の発生した地域の成人式をこぞって取り上げている。そうした取り上げ方自体が問題だと思うし、目立つことを目的としているバカな連中の思うつぼではないか。
そもそも成人式の意義がわからない。
私が成人式を迎えた時代ですら、ただの形式であり無意味なものだった。どこぞの会場に集められて、小一時間、お偉いさんのスピーチを聞くだけでしかなかった。
儀式として、当事者である20歳の若者が、なにかをするわけでもなく、なにかをされるわけでもない。ただ出席するだけではないか。
それにしても、なぜ20歳なのだろう?
大人と子供の境目の法的な根拠は希薄で、現行の少年法では20歳だが18歳に引き下げようとしているし、婚姻では男性は18歳、女性は16歳から可能だ。そして10代で結婚すると、成人とみなされる(成人擬制という)。
ユダヤ教では、成人式にあたるものが戒律の子(バル・ミツバ)として、宗教的・法的に成熟した13歳の少年に付与される。
肉体的な成熟を成人とするのか、精神的な成熟を成人とするのか、じつに曖昧だ。
現代の日本では、多くの儀式が形式化している。本来の意義は忘れられ、お祭り騒ぎとしての行事になってしまった。
その根底には、宗教的価値観の喪失がある。仏教であれ、神道であれ、キリスト教でもいいのだが、長年の智恵の蓄積と中心となるはずの“神さま”の不在が、儀式を形式化させてしまったともいえる。
私自身は宗教的にはニュートラルで、興味を持っているのはその歴史的背景や物語としてである。
そんな私がいうのもなんだが、絶対的存在である“神”に対して、宣誓したり服従するのでない限り、儀式の意義はほとんどない。
アメリカでは大統領の宣誓式でも、神に誓うのであり、裁判で証言するときにも聖書に手を置いて誓う。また、ひとりの人間として洗礼を受けるのも、神に対してである。
日本では証言台に立つとき、良心に誓うが、良心のない悪党が誓ったからといって、なんの拘束力も説得力もない。国会の証人喚問でも偽証してしまうのは、宣誓が形式化しているからだ。偽証すれば法的に罰せられるものの、神に背いたというアイデンティティの危機感などあるはずもなく、刑罰を我慢すればいいだけである。
同様に成人式のような形式のための儀式にも、形式以上の意義はない。
大人としての自覚を……とか、大人としての自立を……などといっても、それを誰かに誓うわけではなく、成人としての権利を与えられるだけだ。
街頭インタビューで、「最近の若者はマナーが悪い」と答える“大人”たちが多かった。では、批判する大人たちは聖人のようにマナーがいいのか?……といえば、そんなことはない。
世代論で論じることはナンセンスだ。
子供でも礼儀正しい者もいれば、いい大人でも不行跡な奴はいる。問題は漠然とした世代ではなく、個人それぞれなのだ。
データを見ればそれはより明確になる。
昨年の犯罪白書によれば、殺人を犯した凶悪犯の数は、1416人。そのうち、少年(14歳〜19歳)は、110人。大人が、1306人である。
さらに年齢別に見ていくと、
20〜24歳が、111人。
25〜29歳が、147人。
30〜39歳が、309人。
40〜49歳が、247人。
50〜59歳が、290人。
60歳以上が、202人。
……となっている。
少年犯罪が凶悪化しているとはいわれるものの、20歳以上の殺人犯の方が、世代的に見ても圧倒的に多いのだ。
世間のいう大人の自覚とは、この程度のものである。ことに親の世代にあたる人数が多いことは顕著だ。
あえて世代間で比較するなら、大人の方がモラルがないのだ。大人の立場から、成人したての若者……ひいては未成年を批判する論拠は乏しい。若い世代の手本となるような社会ではないからだ。
大人の仲間入り……ということは、マナーの無さも犯罪の発生率も仲間入りすることなのか? 警察官や官僚、政治家にいたるまで、日常的に逮捕される昨今である。そんな現実を露わにして、20歳を前にした若者たちに「大人の自覚」をどうやって説くのだ?
かといって、成人式で問題を起こす一部の若者を肯定するわけではない。
彼らだけが特別ではないといいたいのだ。
年齢に関係なく、社会的に問題を起こす人間はいるし、人の迷惑などおかまいなしに自分勝手な人間は多い。
いまの日本の社会そのものが“子供”である。
駅のホームでは「危険ですから黄色い線までお下がりください」と、絶えず連呼している。誰に向けて連呼しているのかもわからないが、言葉を理解できない幼児にしつこく注意しているようではないか。だが、言葉さえ理解できるなら、子供でも一度聞けば危険であることはわかるし、注意するものだ。
「禁煙」の注意書きが書かれていても、無視して喫煙している大人も多い。彼らは「禁煙」の意味が理解できないのか?
「駐輪禁止」と書かれていても、放置自転車は相変わらずだ。たまに取り締まりの人が立っていると、いつもは自転車であふれている駅前から自転車が消える。しかし、翌日には再び自転車が道をふさぐ。彼らには注意しても聞く耳はないのか?
絶えず繰りかえして注意したり、監視する人がいなくては、些細なことも守れない社会なのだ。彼らが大人だというのか?
子供は親の鏡という。
若者の暴走は、大人社会の反映だ。批判するのは簡単だが、問題の根元は大人たちに、社会のあり方にある。
社会そのものが未成熟なのだ。
肉体的、年齢的なことではない、“大人”というのは、理想形としての幻影でしかない。
私たちの作る社会の成人式は……。
まだまだ遠い先のことなのかもしれない。