元次官殺傷事件の報道を見ていて、いくつか疑問に思うことがある。
 まず、事件を「」と呼んでいること。
 元官僚を狙ったからテロなのだろうか?
 被害者の社会的な地位によって、テロなのかそうでないのかが区別されるのは違和感がある。
 連続殺人としては、過去にホームレスが襲撃されるといった事件もあった。だが、それらの事件はテロとは呼ばれない。
 また、官僚に対しては警護がついて被害の拡大を防ごうとしているが、ホームレスが襲撃されても、彼らに警護がついたりはしない。
 この落差はなんなのだろう?
 これも格差のひとつだ。

 一般の市民であっても、ストーカーにおびえる人たちが警察に救いを求めても、警察が対応しなかった結果、殺害された……という事件もあった。
 官僚という地位のある人たちは手厚く守られ、地位の低い人たちは無視される。
 命の重さは、地位によって変わるということだろう。

 病院のたらい回しで死亡してしまった事件でも、それが地位のある人たちだったら優先的に治療をされるのだろう。
 ベッドが満床だとか、医師がいないとかいった理由で、救急車の要請を断る。そのことが、命の危険があるかもしれないというのは、普通に想像力を働かせれば想定できることだ。やむを得ない理由だとしても、救いを求める人を見捨てていることには変わりはない。
 だが、「事務次官が重傷です!」と要請されれば、断ることなく無理をしてでも受け入れるのではないだろうか? 一般市民では断っていたとしても。

 関連してニュース記事を。
時事ドットコム:「許し難い」「民主主義の危機」=元厚生次官殺傷で野党幹部が相次ぎ非難

 国民新党の綿貫民輔代表は「失業者がどんどん出て、何の手当てもしないと社会問題になる。社会福祉の問題でいつまでたっても結論が出ず、(国民を)いらいらさせている政府に対する不満が出てきたのではないか」と指摘した。

 自動車メーカーが大量に派遣社員を解雇するというニュースもあったが、これで暴動が起きないのが日本だ。良くも悪くも、我慢する、堪えるのが国民性だからだ。
 多くの人たちが政府に対する不満を持っていることは間違いない。
 だがそのことと、殺人事件を起こすことを短絡的に結びつけるのは間違いだ。暴動が起きないのは、不満はあっても多くの人が堪えているのだ。あきらめているかもしれないが。

 年金問題では、厚労省や社保庁は大きな批判をされてきた。
 マスコミもさんざんに叩いていた。
 元次官の事件では、その関連性が取りざたされているが、年金問題の欠陥制度や役立たずシステムを作ったのは、今回の元次官たちが当事者だ。責任の一端は彼らにもあるはずだ。
 だが、これまでの批判は影を潜め、むしろその功績を称えている。
 また、天下り批判もマスコミや野党の格好のターゲットだったが、事件の元次官たちは典型的な天下り官僚ではないのか? 週1日の勤務だけで悠々自適に生活できるような人たちだ。
 ここでも、天下り官僚批判は封印されているようだ。

 犯罪は凶悪であり、犯人を擁護するつもりなど毛頭ないが、これまで批判されてきた厚労省元官僚に対する、手のひらを返したような温情的な扱いに、疑問を感じる。
 そして、私たちのような一般的な市民と、元次官とはいえ地位のある人たちとの、命の重さにも「」があるのだと思い知らされた。

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