『ef – a tale of memories』と猫の記憶力

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アニメがらみで「猫」と「記憶」の話。

先シーズンに放映されていたアニメの、『ef – a tale of memories』

先日書いた「true tears」と同様に、学園を舞台とした恋愛ものだった。キャラクターの設定で、特異な状況が背景としてあるのも、「true tears」に似ていた。
また、「true tears」で「絵本」が重要な役割を果たしたように、『ef – a tale of memories』では、作中のキャラクターが書く「小説」が心理的な情景を象徴するものとなっていた。

こうした「劇中劇」的な手法は、わりとよく使われる。うまく使えば、物語の伏線として効果的になる。
『ef – a tale of memories』の原作はPCゲームということだが、ゲームの方は18禁のソフトなエロゲーに属する。しかし、アニメの方はエッチな要素は抑えられ、純愛ものに近いストーリー展開だった。

物語は、2人の少年……紘(ひろ)と蓮治(れんじ)を軸とした、2つの視点から2つの展開がされていく。キャラクターの接点はあるが、2つの物語が同時進行していく形だ。

その蓮治サイドに登場する少女「千尋」が、この作品のイメージを決定づけているといってもいいだろう。
千尋は新しい記憶が13時間しか持続しないという設定になっていた。
半日前の記憶は消えてしまうので、日記帳に記憶を書き留めていた。13時間後にリセットされると、記憶障害になる以前の状態に戻ってしまう。

半日前、1日前、1週間前に自分がなにをしていたか?……というのは、じつのところ厳密に記憶していることは希だろう。

記憶は機械的な記録メディアのように、情報を正確に記録しているわけではない。ある手掛かりから関連するイメージを、思い出したときに再構築するのが記憶だ。つまり、思い出すたびにイメージを書き直しているわけで、時間の経過とともに記憶は変化していく。

人間は「過去」「現在」「未来」という、時間の時系列を認識できるので、記憶を時系列で整理して覚えていられる。

だが、猫にはそんな能力というか意識はない。
時系列で考えるというのは、論理的な思考である。猫はそんな思考はしない。
「猫は三歩歩いたら忘れる」ともいうが、猫たちにも記憶はある。ただ、その記憶に「時間」の概念がないだけだ。

猫たちの生きる世界は、「現在」だけの世界だろう。
記憶はあっても、それが「過去」という認識はしていないはずだ。あることを覚えていても、それは現在のその時点での有効な知恵としての記憶であり、過去という引き出しから出してきたものではない。

昨日のことは覚えていなくても、水がどこにあるか、トイレがどこにあるか、食べ物がどこにあるかはわかる。

私たちのことは覚えていて、帰宅すれば喜んで迎えてくれる。しかし、昨日いっしょに遊んだことなどは覚えてはいないだろう。猫たちにとって、私たちはいっしょに遊んでくれる相手であり、いっしょに寝る相手であり、ご飯をくれる相手であり……と、過去の経験から学んだ記憶が、今現在の行動に反映されているにすぎない。時系列で整理される記憶ではなく、ごちゃごちゃになった記憶が必要なときに行動を決定をする条件になっている……ということだと思う。

人は「整理された記憶」によって、人格を形成したり、周囲との関わりを認識する。それは継続される社会性を求めているからだ。
猫のように生きるのであれば、新しい記憶が13時間しか保たなくても問題はない。
千尋が記憶が消えてしまうことに絶望を感じてしまうのは、人であるがゆえの社会性を必要としているからだ。

『ef – a tale of memories』の物語は、救いのある結末で終える。
千尋の記憶障害が治ることはないかもしれないが、彼女の存在は観た人たちの記憶に鮮明に刻まれることは確かだろう。

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