「文字とコンピュータの甘い関係」

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ごらんのように、日記の体裁を変えた。

この日記<戯れ言>も、自分で思っていた以上に、まめに書いている(笑)。理由は、誰かしら見に来てくれているからでもある。

ただ、ページ数が増えてくると、過去のページを呼びだすのに、一覧があった方がいいなーと思って、CGIを提供しているサイトを探しまわった。私の求めているものは、シンプルでカスタマイズしやすいものだった。結果、このようになっている。

私のHPに設置してある、日記や掲示板等のスクリプトは、それぞれに違うところから頂いてきた。変化をつけたいという意味もあってのことだが、ちょっとした見本市のようになっている(笑)。

基本的な色彩のイメージは黒地に白文字(厳密には薄いグレー)である。どれもがもともとの設定では、背景は白っぽい色に設定されていた。だから、提供元のサイトに飛んでも、サンプルとはイメージが異なるだろうと思う。(それぞれのページの下部に、提供元のリンクがあるので行ってみてほしい)

黒地にしているのは、昔懐かしいMS-DOSのイメージなのだ(笑)。

え?……そんなもの知らないって?

そういう人も増えてるだろうね。現在はMacintoshを使っているが、その昔はPC-98でDOSの世界だったのだ。あの頃はインターネットなんてまだまだ黎明期だったし、パソコン通信(すでに死語)が主流だった。コンピュータの画面は黒地に白文字の、いたってシンプルなものであった。マシンの速度も8MHzとか12MHzとかいう時代だ。いまじゃ、1GHzを超えるような時代になってしまった。

NEC_PC-9801UV11

PC-9801UV11(1988年(昭和63年))Wikipediaより。

私のコンピュータ歴は、じつはもっと古い。パソコンが市場に大々的に登場する以前……、ミニコンと呼ばれていた時代まで遡る。私が高校生の時で、コンピュータを習っていたのだ(歳がばれるな)。当時は、システムのメディアがカセットテープだった。まだフロッピーディスクとかハードディスクが発明されたばかりの時代で、一般の市場には出回っていなかった。記録メディアには紙テープが使われていた。古いウルトラマンとかに、コンピュータから出てくる穴の開いた紙テープがあるのを知っている人もいるだろう。あれだ。

システムを立ち上げるのに、やたらと時間がかかり、15分〜30分はかかったように思う。ディスプレイはなく、コマンド表示は電子タイプライターから紙に打ちだされ、プログラムの修正には、紙テープの穴を開けたりふさいだりで糊付けしていたのだ。呑気な時代だったよ。

それが現在では、量子コンピュータが実験段階に入っている。SFの世界だったものが、たかだか20〜30年で現実のものになろうとしている。

とはいうものの、昔も今も変わらないのは人間。いまだにコンピュータの情報としての主流は「文字」であり、文字を通して情報が飛びかっている。画像や動画も普及はしているが、まだまだ文字情報が大きな役割を担っている。

それはなぜなのだろう?

……と考えてみると、映像や音声はリアルタイムで情報が伝わる。逆にいえば、10分のメッセージであれば、10分見るなり聞くなりしなくてはいけないということだ。

だが、文字だったら読み飛ばすこともできるし、じっくり想像力を働かせて読むこともできる。同じ映像をなん度も見るのはこりごりだが、文章だったら読み返すたびに違ったイメージを抱いたりする。文字情報の主導権は受け取り側にあるのだ。

文字は記号であると同時に、古来からあるデジタル情報だ。文字のひとつひとつには限られた意味と情報しかないが、文章として組あわさると、まったく違った情報を表現する。書く側も読む側も、文字によってメッセージを再構築し、書かれていることや書かれていないことを想像する。ときに誤解を生むこともあれば、イメージを広げてくれることもある。

表現方法としては、あまりに間接的で不完全であるがゆえに、使い方しだいでは想像力をかきたててもくれるのだ。

そして、文章は書く人間の個性が如実にでる。性格や感情、知性や教養、言葉に対するセンス、観察力や表現力……等々。上手い下手にかかわらず、書かれたものから書いた人の内面が見えてくる。私の書いている日記でも同様だろう。それは恥ずかしくも恐いことでもあるのだが、自分を表現したいという衝動の産物でもある。

紙の上の文字から、ディスプレイの上の文字になっても、文字の持つ特性は変わっていない。そして文字を使って描く物語が……文学である。

コンピュータがどんなに進歩しても、文字から完全に切り離されることはないだろう。文字が絶滅しない限りは……。

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