コミュニケーションツールが進歩しても本質は変わらない(2)

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Even as communication tools advance, human nature remains the same.

Even as communication tools advance, human nature remains the same.

コミュニケーションツールが進歩しても本質は変わらない(1)」の続き。

芦田氏の記事で、テレビの多チャンネル化についても触れられているが、多チャンネル化は「選択性の増大」を始めから意図したわけではないと思うのだ。

チャンネルを増やすことが目的だったのか?
あるいは、番組(情報)を増やすために多くのチャンネルを必要としたのか?
どちらも因果関係としては弱い。

多チャンネル化したのは、市場として開拓の余地があったから、新規の事業者が参入した結果だろう。その背景には法的な規制の緩和や、技術的な進歩があった。放送衛星を打ち上げる能力がなければ、BSやCSは存在しえないからだ。
ビジネスチャンスがあったから、多くの放送局が誕生し、そこに番組を提供する制作会社も増えた。

意図して選択肢を増やしたわけではなく、地上波しかなかった時代に、独占的に市場を握っていた古参の放送局から、新規参入社が顧客を奪っていった結果が現在の多チャンネル化だ。
言い換えれば、競争原理が働いたということだ。

視聴者の側からいえば、チャンネルが増えたことで、選択肢は増えたが、見たい番組というか見たいと思う嗜好の変化はさほどないだろう。
放送局の数が2倍、3倍になったからと、テレビを見る時間が倍々になるわけではない。

44年前に見ていたテレビの視聴時間と、現在の視聴時間はそれほど変わらない。というより、増やしようがない。テレビのために割ける時間には、最初から限度があるからだ。

私の田舎では、子どもの頃、テレビ局はNHKと民放が1局しかなかった。
選択肢はなかったわけだが、見たくもない番組を見ることはなかった。限られた選択肢の中でも、「見たくないものは見ない」のだ。
逆に、地元の放送局でやっていない番組で見たいものはあった。
それを可能にしたのが、家庭用ビデオだったのだ。

家庭用ビデオの登場は、テレビの価値を劇的に変えた。
私の親父は、地元に1局しかなかった民放に勤めていた。そこで制作の技術者していたのだが、メカに強い親父の影響もあり、ソニーが最初のベータのビデオを出したときには、すぐさま購入していた。

リアルタイムでしか見ることができなかったテレビが、タイムシフトで見られるようになり、放送されて消えてしまう番組を残せるようになった。
そして、そのビデオを他人に見せることも可能になった。

同時に、他人が録ったものを、自分が見られるようにもなった。
私は、地元ではやっていない番組を、放送局の多い他県に住む友人に頼んで、録画テープを送ってもらって見られるようになった。
ある意味、情報の共有の始まりだ。

「ガンダム」とか「イデオン」とかは、私の地元では放送していなかったのだが、友人から郵送で送られてくるビデオテープで私は見ていたのだ。
そのビデオは、私だけではなく、地元で場所を借りて、上映会をすることで、見たいと思っていた多くのファンにも見せた。今だったら、YouTubeなんていう便利なものがあるが、昔はある場所に集まって、みんなで見ていた。街頭テレビのビデオ版だね。

44年くらい前のことだから、大画面のテレビなんてない。せいぜい20インチくらいのブラウン管テレビだ。視聴環境としてはお世辞にもいいとはいえなかった。親父のコネもあって、グループ会社の家電店の場所と機材を借りて、上映会をしたものだ。

テレビの多チャンネルのことを取り上げて、

多チャンネルになるということの本質は、人は見たくないものを見ないですむようになったということだけのこと。

……というが、では書籍はどうだろう?
雑誌にしろ単行本にしろ、その数は膨大だ。早くからテレビよりも多チャンネル化していた。

マンガ雑誌を例に取れば、初期の頃は大手出版社が数誌の雑誌で寡占していたわけだが、やがて中小の出版社も参入して、数十~数百の雑誌が出てきた。
メディアは違うが、選択肢が飛躍的に増えたということでは、多チャンネル化だ。選択肢は増えても、読みたいもの、好きな作家の作品を読みたいというのが基本だろう。

現象としては、テレビも同じ。
「見たくないものを見ないですむ」のではなく、「見たいものだけを見る」という方が正しい気がする。裏返しの理屈ではあるが、動機は異なる。そもそも興味のないものは、見る見ない以前に、存在そのものを知らない。

多チャンネル化したテレビをすべて見ることが不可能であるように、年間に何万冊も発行される書籍をすべて読むことは不可能だ。
それはひとりの人間の能力を超えているし、物理的にも不可能だ。
必然的に、可能な範囲、能力が許容できる範囲内のことしかできない。

結果、「見たいものだけを見る」「読みたいものだけを読む」のがせいぜいなのだ。
言い換えれば、人間の脳にインプットできる情報量の上限の問題。

また、次のような一節がある。

第4回 Twitterとは何か(2) | BPnetビズカレッジ:ライフデザイン | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉

 知見や経験を広げるというのは、現状の自己を〈否定〉するものに出会うということを意味しているわけだから、極端にいえば嫌いなテレビ番組を見ることの方に意味があるわけだ。それは人間との出会いでももちろんそうだし、学校教育の履修制度でも同じこと。

ここでは「テレビ番組」「人間との出会い」「学校教育」を同列に並べているが、それは違うだろうと思う。
別の例えでいえば、「カップラーメン」と「マクドナルドのハンバーガー」と「フランス料理のフルコース」を比較して、どれが重要か?…と、問うているようなものだ。

役割、目的、意味がそれぞれに違うのだから、比較すること自体がナンセンスだ。
ちょっと小腹が空いたらカップラーメンを食べるが、小腹空いてフルコースを食べるバカはいない。ランチは早くてお手軽なハンバーガーが適しているが、彼女との大切なデートには不向きだろう。ここぞというときは、フルコースで決める……みたいなこと。

テレビ番組で知見を広げるという場合もないわけではないが、テレビは基本「娯楽」だ。そのとき面白ければいい。その面白さにはいろいろあるわけだが、お笑いなのか、涙の感動ドラマなのか、ワクワクするサッカーの試合なのかという違い。しかし、テレビに学校の先生のような教育を期待するのは、お門違いだ。教育番組というのが、あるにはあるけどね。

学校教育に強制力が必要なのは必然だ。それが学ぶということの一面でもある。嫌なこと、苦手なことも、我慢して取り組むのが教育でもあるからだ。
教育と娯楽、そして人間関係は別物。

好き嫌いだけでひとくくりにするのは、少々乱暴だろう。

……まだまだ続く(^^;)

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