環境問題の本当の意味

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 環境問題のニュースが、流れない日がないくらいになった昨今。
 これだけ猛暑が続いていると、地球温暖化を「肌で感じる」ような「気がする」
 しかし、それは「気がする」のであって、温暖化は必ずしも決定された未来というわけではない。
 この夏の猛暑は、過去にはなかったのかといえば、じつは過去にも例はあった。だが、そのときには誰も温暖化のことなんて口にもしなかった。そういう認識がなかったからでもある。
 前にも書いているが、科学者のすべてが温暖化のシナリオに同意しているわけではない。大勢ではあるが、異なる予測を立てる人もいる。この場合、多数決というのは意味がない。来るべき未来は、多数決で決まるわけではないからだ。

 ただ、最近の温暖化やエコの議論で気になるのは、それが産業や投資のキーワードにもなっていることだろう。
 石油を使わないためにバイオ燃料を推奨するというのは、投資家の仕掛けた策略である側面もある。そのため、穀物の相場が値上がりして、安く買い付けた投資家は利益を上げているのだろう。

 前に取り上げた、紙のリサイクル利用の「R100」が、CO2に関してはエコにならないというのも、エコがらみの販売戦略だろう。いまだにR100のマークを、誇らしげに掲げているフリーペーパーや印刷物があるのには笑ってしまう。そういう企業は、本当の意味でエコなんて考えてはいないのだ。

 エコと名のつくものが、消費の動機となり、エコ関連の製品がどんどん作られ、そのメーカーの株価も上がる。
 そうした動きに、どこかしっくりこない、疑問を感じる。

 と、それに関連した記事があった。

WIRED VISION / 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」 / 「バルンガ」の寓話と「地球に優しい」という善意

今、市民たちは、「地球に優しい」という美しい善意を、巨大な風船のように膨らませている。

その善意自体は、もちろん、とても尊いものである。人類もまだまだ捨てたものではない。

でも、「善意」というのが、考えようによっては、とてもやっかいなのだ。「善意」は、ときとして、社会を深い落とし穴に陥れる。「善意」は、おおよそにして、「価値観の押し付け合い」をもたらし、社会を衰退に追い込むからだ。

例えば、今、「不要な包装」だとか「不要な割り箸」だとかがさかんに語られるが、ここでいう「不要」とはなんだろう。それは、誰にとっての「不要」なのだろう。誰がそれを決めるのだろう。何十億の人間がおのおのに「不要」なものを除去しあったら、いったいどのくらいの「有用な」商品が世の中に残るというのだろうか。あなたが生産に携わっている商品は、本当に「有用」だと胸を張っていい切れるだろうか。もしも、「相対的にみて不要」だとされたら、あなたは失業してしまうかもしれないのだ。

風船怪獣バルンガ

風船怪獣バルンガ

 この記事は、なかなか面白いので、全文を読んでいただきたい。

 ここ100年間の気温の上昇は、人間の文明活動がおもな原因だというのは、たぶん正しい。
 しかし、過去1万年の地質学的な気候変化を見ると、6000年~8000年前には、現在よりも気温が高い時期が長く続いていたこともわかっている。だが、温暖化にはならなかった。
 現在は氷河期と氷河期の間の温暖な時代……間氷期である。氷河期は、4万年から10万年の周期で起こっている。

 文明がこの時代に起こったのは、幸いだったし必然でもあった。地球が凍結してしまう氷河期では、文明は成立しないだろうからだ。
 とかく、地球環境は安定していて、常に一定していると考えがちだが、それは間違っている。環境問題は、不変な環境を前提にしている。その発想自体が間違っているように思う。

 いずれにしても、現在は気候が変動しやすい時期にはなっている。
 ある予測では、温暖化により海流が変化して、2010年頃から北半球は寒冷化し、平均気温が7~8度下がるという展開もあるという。

 2010年といえば、3年後だ。
 3年後の今頃、寒い夏になっているのかもしれない。

【追記】
2009年は冷夏になったが、2010年は逆に猛暑となった。

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