朝ドラ『エール』に見る戦時中の空気

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毎朝、出勤前に見ている朝ドラ『エール』は、時代が戦時中になった。
出演者や制作スタッフは、ほとんどが戦後世代だと思うから、実体験ではなく歴史的資料などからの「想像」の時代だろう。

「たぶん、こうだったんじゃないか」という、チコちゃん流の解釈でもある。
リアルな戦時中の様子ではなく、いくぶんオブラートに包まれた描写だと思う。

『エール』裕一は“軍歌の覇王”への路を突き進むのか 時代の変化にともなう木枯との立場の逆転|Real Sound|リアルサウンド 映画部

しかし、国のために人々が平穏な日常や夢を諦めるのは、その先に待ち受ける素晴らしい未来が保証された上で成り立つ。歴史を学んだ私たちはこの時代、国民が政府から日本の劣勢をひた隠しにされていた事実を知っている。ガダルカナル島での戦いも表向きは「転進」、つまりあたかも作戦の一環として撤退したように伝えられていたが、本当は勝ち目がないことを見込んで「退却」しただけ。世に蔓延る報道を、新聞記者の鉄男は疑っている様子だ。もしも、善と信じて行なっていることが間違っていたら。生み出した音楽が、人を間違った方向に進めているのだとしたら……。裕一は自分の行動を正当化するように、鉄男の言葉を否定する。

『エール』に限らず、朝ドラは昭和初期の時代を舞台にすることが多いから、戦争のエピソードが出てくる。昭和40年代を舞台にした『ひよっこ』ですら、叔父が「インパールにいた」と戦争シーンを回想していた。

現代に近い『半分、青い』は、朝ドラとしては異色ですらある。
ある意味、朝ドラは戦争のトラウマにとらわれているともいえる。朝ドラが、というより、日本人が戦争のトラウマから抜け出せないのかもしれない。
戦後世代である私たちは、実体験はなくても、ドラマなどで繰り返し(脚色された)戦争体験をリピートされ、トラウマを植え付けられている。それがいいのかどうかは、なんともいえないが。

そんな戦時中のシーンの『エール』を見ていると、この空気感は今もあまり変わっていないな……と思う。

振りかエール『第16週「不協和音」』より

「お国のため」が「会社のため」に変わり、敵がアメリカではなく同業他社になった。
軍隊式の上下関係は変わらず、精神論で働き、パワハラやセクハラは日常的で、死ぬまで働かせられる。
自己主張すると協調性がないといわれ、自主性よりも命令に従うことを求められ、サービス残業などの無報酬労働をするものが「優良社員」とされる。
効率性よりも前例にならうことが是とされ、革新的な取り組みよりも保守的な慣行を重視する。

サラリーマンの服装は、まるで軍服のようなスーツ姿。会社によっては、細かな服装規定がある。
学校には法律よりも優先される「校則」があり、服装はもちろんのこと、髪型や髪色、はたまた肌の色を問題にすることまである。学校には基本的人権は存在しない。今でこそ少なくなったが、かつては教師が子供に体罰を与えることは日常的に行われていた。これは軍隊の体罰と同等だった。
子供たちは、企業戦士になるべく徹底した同質化教育を施されるのだ。

同調圧力に馴染まない、あるいは反発するものは、イジメの対象になる。
出る杭は打たれる。
これは「非国民」と罵る行為と同じだ。

コロナ禍の現在は、敵が新型コロナになった。
かつての「特高」は国民を監視していたが、コロナ禍では「自粛警察」「マスク警察」など、自発的な自警団が、世間の空気にそぐわない者たちを狩っている。

戦時中の女性はスカートがNGで、“もんぺ”をはいていた。というより強制だ。
現在は、マスクが「お願い」されているが、選択肢のないお願いなので強要・強制と同じ。マスクをしていないと「非国民」扱いだ。

首相や知事の「要請」も、言葉上に強制力はないが、言外に「強制」の意味を含ませている。
要請に従わないと、店名を公表するなどの罰を与えていた。
このやり方も、戦時中の徴用や供出の臭いがする。

自粛、自粛の空気で、いやおうなく店を閉めたり、外出を控えたりする日常。
「お国のために」自粛して、倒産したり失業したりする人たち増え続けているが、感染防止が最優先で経済的弱者の救済は後回し。
周りに合わせる同調圧力に逆らえる人は少ない。逆らうと、バッシングや脅迫をされてしまう。この空気は、まさに戦時中を彷彿とさせる。

現在のコロナ禍の空気をみると、国民が「お願い」や「要請」に従順になっている様子は、国民性でもあるが恐ろしくもある。
あの戦争で、「お国のために」と戦争に邁進したのは、この国民性が背景にあったのだろう。

朝ドラで戦争のことが出てくると、いつも考えさせられてしまう。

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