朝ドラ『エール』をめぐる戦争描写について

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朝ドラの戦争描写について、異論というかツッコミのコラムが出ていた。
以下の2本のコラムだが、共通の論点は「史実に照らした描写のあり方」という点。
ドラマの登場人物に、実在のモデルがいるため、史実との乖離が問題にされている。

朝ドラ『エール』の「戦争の描き方」に「決定的な違和感」抱いたワケ(堀井 憲一郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)

朝ドラ『エール』の戦争描写は、かつてないものだった。

はからずも戦争に協力した当時の壮年男性の悩みと戦後の懊悩を描いている。ビルマでの戦闘シーンも描かれていた。

戦時の「日本男性」の心情をかなりリアルに描いていたとおもう。

そこまできちんと描いていた『エール』だからこそ、気づかされたことがある。

ひょっとしたら、わりと些細なことかもしれない。

でもちょっと気になることだった。

(中略)

『エール』でも、この戦争に負けたら大変なことになるんじゃないか、とは誰も言ってなかった。戦争が終わったら、自分のやりたいことをしたい、と言ってたばかりである。

さほど気にするほどのことでもないのかもしれない。

でもそれは、「戦争に負けるけど、戦争さえ終われば、いい時代になるんじゃないかな」という未来混入のように、私には聞こえてきたのである。

深い意味はないのかもしれない。でもだからこそ、そこには見落とされた大きな齟齬があるのではないか。そう感じてしまった。

加えていうなら、「戦争が終わったらいい国になる」という考えをもとにドラマが作られているから、終戦直後の都市の混乱と治安の悪さには触れられなくなる。

朝ドラ『エール』は史実に基づくドラマのモラルを逸脱していないか?(中川 右介) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

朝ドラ『エール』の、10月12日から16日の回が、「戦争を真正面から描いた」として評判がいい。

「戦場」シーンを出して、その残酷さと非情さ、理不尽さ、虚しさといったものをストレートに描き、号泣しない演技、音楽も排した抑制された演出も称賛に値するだろう。

(中略)

「古関裕而」を「古山裕一」として、フィクションとして描くことには、問題はない。

だが『エール』では、フィクションのはずなのに、作中で「古山裕一」が作曲する曲は、実在の「古関裕而」が作曲した曲をそのまま使っている。

(中略)

たしかに、いまの感覚だと、「元気に敗戦を迎え、2ヵ月後にはラジオドラマを書いていました」という音楽家は、共感を呼びにくい。

だから、それまでの自分を否定しなければならないほど大きな苦難と、それを乗り越える物語が必要になり、創作したとしか思えない。その陳腐なキャラクターに多くの人が感動するのであれば、番組としては成功だ。

だが、事実はドラマよりも、ぶっ飛んでいる。

古関に限らず、そして文化人・芸術家に限らず、大半の日本人は、8月15日以降、嘆き悲しんだり、怒ったり、反省したり後悔したりせず、新しい君主であるマッカーサー元帥の下で、平和と民主主義へ向かって走り出したのだ。

その滑稽さこそ、ドラマになると思うのだが。

ふたりのコラムニスト(堀井憲一郎氏、中川右介氏)は、史実に重きを置く視点からドラマを見ている。
それもひとつの見かただろうとは思う。

「エール」の史実について詳しく書かれているのは、以下の辻田真佐憲氏の連載コラム。

<朝ドラ「エール」と史実>「人々の再起を願って長調に…」本当は原作者に会わず作曲された「長崎の鐘」
<朝ドラ「エール」と史実>「鐘の鳴る丘」成功と復活の真相。実際の古関裕而は戦後すぐ活動再開していた?

ドラマ本編と合わせて読むと、違った見方ができる。

朝ドラ『エール』に見る戦時中の空気」でも書いたが、私も前出のコラムニストも、ドラマ出演者および制作スタッフも、戦後世代だということ。
私たちにとって「戦争」とは実体験のない歴史上の出来事であり、フィクションの領域なんだ。

朝ドラ『エール』をめぐる戦争描写について

空襲後の東京の様子(1945年)

戦時中の実体験がない世代に、当時のリアルを求めるのは無理がある。史料からある程度の再現はできるだろうが、それすらも想像の産物だ。

裕一は福島出身だが、あまり福島の方言が出てこない。昔は方言が顕著だったはずだから、リアルに徹するなら、聞き取ることは難しいはず。音の出身の豊橋であれば三河弁だと思うが、これまた癖のある方言だという。
リアリティをつっこむなら、これらの方言描写も問題にしないといけなくなる。

戦時中のリアリティは問題にするのに、方言についてはスルーというのは、リアリティを求める意見からすれば片手落ち。

そもそも論になるが、ドラマに史実の正確さを求めるのは違うと思う。
ドキュメンタリーやノンフィクションならわからないでもないが、ノンフィクションと銘打っていても、再現ドラマであれば役者が演じるという時点でフィクションにならざるをえない。

モデルになった実在の人物がいて、史実はこうだから、こういう描写はおかしい……と言い出したら、「エール」のドラマは制作すること自体がおかしいという話になってしまう。それは大河ドラマも同様だ。

極端な話、歴史上の人物のドラマは作ってはいけない……ということに帰着する。
なぜなら、史実から逸脱してはいけない、フィクションを加えてはいけない、言葉も忠実に再現しなくてはいけない……となると、ドラマにすること自体が不可能だからだ。

大河ドラマの舞台となる時代の日本語は、現代とは大きく違っていたはずだから、まずしゃべることすらできない。
達筆な書状などがときどき出てくるが、あの文字は読めないよ(^_^)b
夜は明かりがないから、文字通りの真っ暗だ。忍びが活躍できたのは、夜が闇だったからでもある。現代のように煌々と灯りがついていたら、黒装束でも目立ってしまう。
また、人にたかるノミやシラミが普通にいたから、清潔でいることは難しかった。ドラマでは、シラミに悩まされる奥方様なんてのは出てこないよね。

シラミ問題は戦後にもあって、今では考えられないが、DDT(有機塩素系の殺虫剤、農薬)を直接人体に振りかけていた。「エール」に出てきた浮浪児たちにもシラミはたかっていたはずだが、汚れてはいてもシラミのシーンは出てこなかった。
リアリティを追求するなら、そういう描写も必要になる。

実在の人物をモデルにするのは、フィクションの中にリアルとの接点を持たせるためだ。
100%フィクションの戦時中ドラマがあってもいいとは思うが、リアルとの接点が乏しいと、リアリティのあるドラマにしにくいのだろう。

ドラマは所詮ドラマである。
ドラマに史実に基ずくリアルを求めるのは、ツッコミどころを間違っている。

「まんぷく」では、インスタントラーメンの開発者がモデルになっていたが、名前が違うと文句をつけたか?
名前が違うのなら、開発するのはラーメン以外にすべきといったか?
実は、史実ではインスタントラーメンのルーツは台湾にあったともいわれているので、オリジナルではないとの説もある。

実在の人物がモデルになった過去作品についても同様のことがいえる。
どのドラマも、史実とは大きく異なる。
それを「おかしい」というのであれば、朝ドラの存在意義そのものの否定になる。

別に朝ドラの肩を持つわけではないが、ドラマとはそういうものだろう。
たいていの人は、フィクションとして朝ドラを見ているはずだ。
壮絶な戦争シーンと話題にはなったが、戦争を知らない世代にとっては、それすらも娯楽としてのドラマなのだ。悲劇に涙するのも、泣けるドラマも娯楽だ。朝、涙を流しても、昼にはケロッとしている。

個人的には、実在した人物をモデルにした朝ドラは、そろそろ卒業したら?……と思う。
「ひよっこ」みたいに、時代としては昔でもいいが、ドラマとしては完全にフィクションの方が好きだね。

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