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 大分県で起きた教員採用試験の不正問題。
 その後、他県の調査では不正はなかった……という不可思議。
 自己申告の調査結果が信用できない……というのは、教師が信頼されていないからだろう。

 政治家や企業でも、不正が疑われたとき、決まって最初は疑惑を否定する。
 しかし、のちに第三者によって不正の事実をつきつけられて、渋々疑惑を認める。そして、深々と頭を下げて、形だけの謝罪。いったい誰に向かって謝っているのだろう……という違和感をいつも覚える。

 不正に採用された教師が、優れた教師であるはずがない。採用基準に満たない成績を水増ししたのだから、もともと能力が足りなかった。
 学生時代は遠い昔だが、教えを受けてきた先生の中で、いい先生だった……といえる人は少ない。
 そんな先生の話。
プロローグ 真剣にぶつかってこそのホンネ:NBonline(日経ビジネス オンライン)

 凡庸な教師はただしゃべる。
 良い教師は説明する。
 優れた教師は自ら示す。
 そして偉大な教師は心に火をつける。

 19世紀の英国哲学者、ウィリアム・アーサー・ワードの言葉だ。

 個人的な経験からいえば、9割は凡庸な教師だったね。もはや、名前すら覚えていない先生たち。中には、体罰を平然とやっていた飲んだくれの先生もいた。小学3年のときの先生で、授業に出てくるのに、酔って顔が真っ赤だった先生だ。
 良い教師は、高校3年間を通しての担任だった先生だ。若い先生だったが、親身になって話を聞いてくれる先生で、熱意は感じられた。
 偉大な教師は、中学3年のときの理科の先生……M先生だ。
 この先生の名前は覚えているし、印象的だった授業の中身も覚えている。もともと理科は好きな教科だったが、M先生のお陰でより科学に興味を持つようになった。
 いろんな意味で型破りな先生だった。M先生が試験問題を作ったときには、教科書や参考書を使ってもいいという試験だった。選択問題や記入問題のように、教科書を見れば解答が書いてある試験ではなく、論文のように考えて答えなくてはいけない試験だった。
 M先生に出会ったことが、私のその後の生き方に影響を与えたことは間違いない。

 生徒は先生を選べない。
 いい先生に出会うかどうかが、子どもの将来を左右するといってもいい。しかし、いい先生が全体の1割くらいしかいないとしたら、出会える確率は低いものになってしまう。
 すべての先生が偉大な先生にはなれないにしても、良い教師、優れた教師がもっと増えた方がいいと思う。
 なかなか難しい問題ではあるのだが……。

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