観光PRにしか見えなかった五輪閉会式

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東京五輪閉会式

五輪祭りが過ぎて、コロナ禍の日常に引き戻されたにニッポン。
スポーツは感動と勇気をくれたかもしれないが、コロナで死亡する人たちは救えなかった。
オリンピック期間中(7月23日〜8月8日)のコロナ死亡者数は、241人だった。亡くなった人たちの存在は、オリンピックの歓声にかき消されてしまったかのようだ。

その五輪開閉会式についてのコラムなのだが……。

つぎはぎだらけの開閉会式で世界に発信してしまった「痩せ細った日本の姿」 コロナのせいだけじゃなかった | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

見たかったのはこれじゃない。シンプルに、そう思った。コロナ、復興、サステナブル、エッセンシャルワーカーへの感謝、括弧付きの「多様性」、火消しとジャズと歌舞伎、いろいろな要素が粗雑に切り貼りされざるを得なかった、丸ごと「誰かに向けて組み立てられたアリバイ」のような開会式。

心のどこかで良い意味での裏切りを期待して観た閉会式は、開会式の抽象・観念中心のコンセプトから日本の具体的な「日常」や「暮らし」へ降りて魅力を伝えるという意思が感じられたものの、舞台や空間の使い方も小劇場的発想を脱していないとの印象が強く、否定できぬ失望と退屈の中で「いつどうやって終わるんだろう」と最後の着地を待った。

「国立競技場のアサガオが」「私たちの旅はまだまだ続きます」「この景色を忘れないで」との橋本聖子大会組織委員会会長の閉会スピーチは、どこかの中学の卒業式で人の良い校長先生が生徒に「贈る言葉」みたいだなぁ、と思いながら聞いた。バッハIOC会長のスピーチは、開会式の半分の尺になっていてホッとした。非難されることが前提で口を開く時、「誰からも非難されないことを意図した表現」とは「なんら相手の心に残らない表現」なのだとあらためて知る。

これは、ナショナルイベント規模の表現じゃない。もし開閉会式がフルサイズの有観客で、直前にさまざまな裏事情で降りていった人々がそこにいたのなら別物になったのだろうか。いや、きっと、全く、そういうことではないのだろう。感心したのは壮麗なプロジェクションマッピングや開会式のドローンだったけれど、それはピンポイントに「技術」の話だ。

ほぼ同感。
セレモニーだとしても、時間が長過ぎだよね。
内容以前の問題として、長すぎて飽きてしまう。
選手入場なんて、最初に入場した選手たちは、2時間も待ってなければいけないわけで、退屈だろうなーと想像する。

せいぜい30分。
だらだらと2時間もやるもんじゃない。
ダンスも歌舞伎もいらんよ。スポーツとは関係ないんだし。
お偉いさんの挨拶と選手宣誓、それと花火を上げておしまい。高校野球並みにシンプルでいいのではないか。

余談だが、甲子園の開会式での山崎育三郎さんの「栄冠は君に輝く」の独唱は心に響いた。
シンプル・イズ・ベストの典型。
五輪よりも意味のある演出だったと思う。

五輪の閉会式は、さらに輪を掛けてひどかったね。
選手たちが途中で退出するのもわかる。
アイヌも盆踊りも場違いに思えた。
まるで日本の観光PR動画だ。「日本はいいぞー」の自画自賛。
見ているこっちの方が恥ずかしくなる。

舞台の上では、なにやら寸劇をやっていたようだが、意味不明。
テレビでは解説が入るが、その場にいる選手たちには、なんなのかまったくわからなかったのではと思う。そもそも演者が見えないだろうしね。
それって、誰のためにやってるの?……と問いたくなった。
自己満足な演目だよね。

全体を通して、日本文化を賛美する自慰行為的内容だった。
その視線は、歴史や伝統などの過去に向けられたものだ。「昔の日本は良かった」的な見せ方で、現代に生きる私たちとは別の地平の日本のような気がした。

未来に向けたビジョンがほとんどなかった。
逆にいえば、日本の未来はこうだ……というビジョンを示すことができないことの表れでもある。

痩せ細った日本の姿」ともいえるが、「閉塞感に満ちた日本の姿」でもある。
1964年の五輪のあと、日本は高度成長時代に突入した。
しかし、2021年の五輪のあと、日本は長期衰退期へと突入するのかもしれない。

50年後の人々はいう。
「21年の五輪が日本の最後の栄光だったね。今では衰退途上国になってしまった」
のちに東京五輪不況と呼ばれることになった長期にわたる不況は、五輪の多額の負債と3年続いたコロナ禍による経済損失によって、日本に深刻なダメージを与えた。
50年経った今も、その泥沼から抜け出せずにいる。

……とかなんとか。

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