つらつらとニュース記事のリンクを辿っていったら、興味深い記事にたどり着いた。
 それは新聞記事の書かれ方、新聞記事が想定する「大衆の主体」あるいは「文章の観点」の根拠についてだった。
 通常、新聞記事は一人称で書かれることはない。たいていは三人称だ。署名入り記事であっても、「私」という視点は出てこない。
 普段、あまり意識しないで読んでいるが、考えてみるとこれは奇妙なことだ。
 書いているのは個人だし、小説ではないのだから、記者の視点と感性で書かれているはずだ。取材する場合の視点も、個人によるものだ。
 つまり、「私」が記事の視点なのだ。
 新聞が代弁する「われわれ」の観点に対して、疑問と矛盾を問いかける記事の一節が以下だ。
 ここだけ取り出しても、わからないと思うので、全文をリンク先から読んでほしい。
CNET Japan Blog – 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか

 毎日の記者は、おそらく弱者に自分自身を仮託して記事を書いているのだろう。しかしもし、今後も毎日が<われわれ>を背負っていくのだとすれば、その「仮託」そのものが、真正なのかどうか――つまり記者が勝手に想像した架空の弱者ではなく、本当の弱者に常に近づける作業をできているかどうか――という検証を、つねに行っていかなければならない。そうしなければ毎日は「弱者のための新聞」ではなく、「弱者のふりをした新聞」になってしまう。

 こうしたことは、新聞に限らず、テレビでも週刊誌でも同じだ。
 よく見かけるのは、テレビだ。
 ニュースキャスターが、ある事件や問題に対して、「われわれ国民は」とか「われわれ住民は」というスタンスから、コメントをする。
 だが、そのスタンスの根拠となる「われわれ」は明確な実像を持たない。
 キャスターはわれわれの代表なのか?
 たとえ選挙で選ばれた議員であっても、われわれを代表しているとはいえない。
 多数決、あるいは多数派の人々が、われわれの実像なのだろうか?
 マスメディアという名前は「大衆媒体」の意味だが、大衆が平均的な姿であるなら、平均から外れている人の差違は無視することになる。
 あたかも代弁しているかのように語るマスメディアは、実在しないイメージとしての「われわれ」を創出して演じている。
 ねつ造とはいわないが、これは「嘘」あるいは「フィクション」の観点ではないのか?
 少なくとも、新聞の主張の主体は、新聞社そのものだろう。
 であるならば、「われわれ」の代弁としてではなく、「当社は」とか「(記者の)私は」というスタンスが欠落しているのは、日本語として不明瞭であり責任を曖昧にしている書き方だといえる。

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