不倫スキャンダルとイジメの関係

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不倫スキャンダルとイジメの関係

芸能人の不倫スキャンダルが盛り上がっているようだ。
テレビや芸能ニュースでは非難の嵐。ネット上ではバッシングの嵐だ。
有名人とはいえ、赤の他人の不倫などどうでもいいと思うのだが、許せない潔癖症が多いのかもしれない。

この話題を取り上げるのは、不倫の是非ではなく、なぜこれほどまでにバッシングするのか、その心理というか背景を考察するため。

海外での関連記事が出ていた。

他人の不倫に大騒ぎする日本人への冷めた目線 | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

このような展開は、かなり日本独特だと思う。ハリウッドでは、差別発言をして降板させられることはあっても、不倫で仕事を失うことは、まずない。そのことについて本人や彼らを代表する人がコメントすることも基本的にはないし、ましてや謝罪会見をするなどありえない。ゴシップ紙が騒ぎ立てても、それはそれ。仕事に関しては通常営業だ。「プライベートなことは絶対に聞かないように」というお達しが強くなるくらいで、映画の宣伝活動も予定どおり決行されることが多い。

価値観の違いといえばそうなのだが、日本では不倫問題よりも差別発言の方が軽く扱われているように思う。
また、薬物問題も日本では大問題になるが、アメリカでも問題にはなるものの治療して再起する俳優やミュージシャンは少なくない。本人の依存症問題と、俳優や作品の評価は別ということなのだろう。

これほどまでに不倫を叩くのは、不倫が許せないとかいう正義感からではなく、叩くことに快感を覚える人が多いからではないかと思う。
ようするに、「イジメ」だ。

ストレスを抱え、イジメる対象を探す潜在的イジメっ子たちは、ターゲットを探していた。
そこに、不倫スキャンダルが発覚すると、その対象者に「イジメてもいいぞ」フラッグが立つ。
このフラッグが立つと、公然とバッシングしても批判されない。叩けば叩くほど賛同者が集まる。
もはや、リンチである。

不倫の是非はあまり関係ない。
スキャンダルとして取り上げられ、注目を集めたのが有名人であることが重要。
つまり、話題性だ。
話題性がなければ、バッシングする意味がない。言い換えれば、話題性があるからイジメがいがあるというわけだ。

不倫をバッシングする人が多いということは、非の打ち所がない潔癖で品行方正の完璧な人が多いのか?……というと、そんなことはないだろう。
大部分の人は、自分のことは棚に上げていて、イジメに加担している。
なぜなら、イジメられる側よりイジメる側に立つ方が安心できるからだ。

先日、テレビでイジメのことを取り上げていて、イジメる側の言い分を紹介していた。
いわく、「イジメることが快感だった」と。
不倫バッシングに加担している人たちも、大なり小なり快感を感じているはずだ。
「あいつはクソだが、オレ(わたし)は違う」というような、優越感すら感じているかもしれない。

アメリカが不倫に寛容なのは、個人主義が浸透していて、曲がりなりにも多様性を受け入れる土壌があるからだろう。人種差別は根強いが、一方で多様性を認める価値観もある。
プライベートなことと仕事は切り離す。
不倫というのは、突き詰めると個人の性的嗜好でもあるわけで、それを問題にするのは個人主義を否定することにもなる。また、結婚というのが絶対の契約ではないという意識もあるように思う。結婚式で永遠の愛を誓うのがクリスチャンでもあるが、あっさりと反故にするのもアメリカ人だ(^^)。結婚に対してドライで現実的なんだね。

思うに、日本の社会は平穏なように見えてストレスが多く、それをうまく処理できない人が多いのだろう。
ストレスのはけ口を求めて、リアルでイジメる側に立つか、有名人のスキャンダルにネットバッシングで加担して発散するかの違い。匿名の人々がバッシングの対象になることはほぼないから、安心して罵詈雑言を浴びせられる。
妬みや願望の裏返しでもあるのだろう。

病んでる人が多いんだね。

そして、ネットバッシングに加担している人たちは、イジメに加担している意識がない。
芸能界やネット上の世界は、一般人にしてみればリアル感が乏しい仮想世界でもある。自分に実害が及ばないと思っているから、バッシングするのにためらいがない。
俳優の彼と彼女が傷ついても、意に介さない。
「悪いのは彼らだから」という屁理屈。
その理屈は、イジメっ子の言い分でもある。

当事者ではない野次馬に、彼らを(言葉で)殴る権利も権限もない。
それとも、ネットは憎悪の増幅装置になってしまったのか?
……そうなっている一面もあるんだよね。

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