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国会は嘘つきと正直者を判別する世界になっているようだ(笑)。

「疑惑のデパート」「疑惑の〜〜」というのは、今年の流行語に選ばれそうだが、その言葉を発した本人が「疑惑」にまみれてしまうとは、お笑いぐさである。

とはいうものの、人間、正直者を貫き通すのは至難の業である。

正直者はバカを見る……ともいわれるように、正直者はプラスの結果ばかりを生むわけではない。かといって、嘘つきはときに犯罪にも問われるのだから、どちらがいいとも限らない。

某鈴木氏を追いつめた某辻元氏であったが、相手に向けた矛先に自分も刺されてしまうとは、とんだオチである。

そもそも政治家をやるような人間に、バカ正直な人間はいないのではないだろうか? 理想としては国民の代表であり代弁者なのだが、政界という摩訶不思議な駆け引きをしのいで勝ち上がって行くには、正直であることは弱点にもなるのだろう。だれしも自分の弱点は隠したいものだし、身を守るために嘘が必要なこともある。問題は嘘の中身である。

某辻元氏にしても、疑惑が発覚したときに、正直に事実を認めればよかった。だが、だれしも最初は誤魔化せるかもしれないと思うものだ。最初の会見で嘘をついてしまったのは、嘘を真実であると自分自身を騙そうとした結果だろう。そういうときの心理状態は、短絡的で先の結果を予想できるような冷静な思考はできない。一種のパニックに陥っているのだ。嘘で他人を説得できると思っての発言だったはずだが、じつのところ嘘はバレバレなのだ。自分の仮想した嘘によって、自分自身の思考回路が騙されてしまい、嘘を平気でいえてしまうという構図なのである。これは某鈴木氏も同様だ。

だが、根本的に嘘は嘘でしかない。嘘とは実体のない仮想の設定である。仮想のものである以上、仮想している状況が崩れてしまえば、効力を失ってしまう。シンデレラの魔法と同じで、0時を回ってしまえば魔法は解けてしまうのだ。

某辻元氏の政治生命も、嘘によって絶たれてしまうだろう。少なくとも信用はなくなった。魔法は解けてしまったのだ。

嘘には許される嘘と、許されない嘘がある。

人を傷つける嘘と、人を救う嘘がある。

物語……フィクションは、ときに人を楽しませ、救うことができる嘘にもなれる。ある意味では、嘘は高度な知性の産物でもある。

自然界には“トリック”を使う生きものがいる。擬態やカモフラージュで身を守ったり獲物を攻撃したり、あるいは偽装で交尾相手を獲得する。これは“嘘”ではない。生物にとってのトリックは、仮想ではなく生き残るための現実である。

人間のつく嘘には、多くの場合実体がない。巧妙な嘘……詐欺には、いかにも実体があるような工作をすることもあるが、作られた実体は見せかけであって、表面的なものでしかない。

世の中には、実体のない嘘……虚構が多い。テレビから流れる情報をそのまま鵜呑みにするのは、愚の骨頂だ。たとえニュースであっても、取材している人間の目を通した、他人の目から見た部分的な真実でしかない。

カメラは真実を捉えている……と、思われがちだが、これも先入観である。カメラは限られた角度から、限られた範囲の場面を、“事実”として写しているに過ぎない。カメラのレンズの外側にあるかもしれない、真実を写してはいないのだ。

よくあるスキャンダルな写真では、○○激写……などとやっている。話題のカップルが写っていたとしても、じつはふたり以外に同行者がいたとしても、写真の画面の中に入っていなければ、部分的な事実を写しているだけで真実を伝えてはいない。そこにあるのは、意図的に切り取られた事実であり、切り取ることによって嘘を演出しているのである。

嘘とは事実の断片であり、事実を再配列した“意図”である。つまり、真実という全体像から、部分的な事実を切り取ったり、クローズアップすることは“嘘”の世界なのだ。いいかえると、情報の制限であり欠如だ。乏しい情報は、人の想像力をかきたてる。その想像力を働かせる過程が、嘘となる。

そういえば、「正直者はだれか?」という童話だか寓話があった。三人の者のうち、だれかが嘘をついて、だれかが正直者である……という話だ。

「わたしは正直者です」

「ぼくは嘘つきです」

こういったとしても、その真偽は確かめようがない。

同様に、証人喚問で、

「良心にしたがって、真実を述べることを誓います」

……と、いってもそれが正直者なのか嘘つきなのかはわかるはずもない。宣誓自体が無意味なのだ。

人間は基本的に嘘つきである。

嘘は高度な頭脳が生み出す思考の産物であり、自己防衛本能だ。嘘そのものに害はないが、問題は嘘の使い方と受け止め方だろう。嘘を見抜ける感性というのも必要だ。

嘘は楽しめる嘘だけにしたいものである。

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