戦争中のウクライナに様々な支援をする動きが活発だが、千羽鶴を送ろうとする人たちがいるようだ。
国内の大きな災害時にも、千羽鶴が送られて問題になったことがあった。実質的に何の役にも立たない千羽鶴は、現実的な支援にはならない。
ウクライナへの“千羽鶴”に賛否 寄贈断念も…「無意味」批判の声には疑問|テレ朝news-テレビ朝日のニュースサイト
様々な願いを込め、一つひとつ折られた鶴の折り紙。鶴は古来より、縁起の良い鳥とされ、よく通るその声は、天にまで届くのだといいます。
(中略)
「2ちゃんねる」創始者のひろゆきさんが、日本からウクライナに千羽鶴を送ろうとしている団体に対し、痛烈に批判しました。
ひろゆき氏のツイッターから:「千羽鶴とか『無駄な行為をして、良いことをした気分になるのは、恥ずかしいことである』というのを、そろそろ理解してもらいたいと思ってるのは、おいらだけですかね?」
さらに、メンタリストのDaiGoさんも、次のようにSNSに投稿しました。
DaiGo氏のツイッターから:「ウクライナに折り鶴送るは、狂気。そんな暇あるなら、バイトでもして、ウクライナに海外送金してあげなよと」
祈りを鶴に込めるのはいいとしても、それを送りつけるのは無責任な気がする。
そこには、ある種のエゴを感じる。
「祈ってやったから、この鶴を受け取れ」みたいな。
相手が求めていないものを送りつけるのは、相手のことを考えてないのではないか?
祈りというのは、他者に誇示するためにすることではなく、密かに行うものだろう。
平和を祈るのはいい。鶴を折りながら祈るのもいい。だが、それはそれぞれの個人が心の内で完結させればよい。祈りを形にした鶴を、一方的に押しつけるのは話が違うと思う。
千羽鶴の原点とされるのは江戸時代まで遡るとのことだが、祈願等で千羽鶴が使われるようになったのは、比較的最近だという。
千羽鶴は、一種の呪術道具だとする説もある。
ネガティブな呪いの場合は藁人形だったりするが、願望成就のための依り代が折り鶴というわけだ。
千羽鶴を被災地に送るべきでないスピリチュアル上の3つの理由/おち研
鶴を願いの依り代として考えれば、祈りを込めた鶴は自分の見える範囲に置くのが自然です。実際、禎子の制作した鶴は生前そのように管理されました。
また呪術の慣習に従えば、人に祈りを捧げる場合は相手に知られないようにするのが基本です。百度参り信仰にもある通り、誰かに見られたり口外した場合は願いが聞き入れられないものとされました。
その意味で、制作した千羽鶴を相手に贈るという行為はこの大原則に反します。
せっかくの祈りを自ら台無しにするばかりか、神の依り代でなくなった折り鶴は式神としての手続きが不完全な状態となります。つまり妖獣としての鶴に想定通りの働きは期待できません。
この説には同意だな。
千羽鶴は日本的な文化ではあるが、文化というのは宗教観と結びついている。日本は宗教的にはごっちゃまぜで、仏教、神道、八百万の神、そして外来の宗教が入り交じっている。
ウクライナの宗教は、ウクライナ正教と東方カトリック教が大勢を占めるという。大枠ではキリスト教だが、宗派が違うと考えかたも変わる。そこが宗教の難しいところでもあり、宗派間で争いが起こったりする。ウクライナ東部は、ロシア系住民が多いことからロシア正教の信者が多かった。背景には宗派の違いが対立の火種にあったと推察される。
日本とは宗教の違うウクライナに、日本の宗教的なルーツを持つ千羽鶴を送るのは、相手国の宗教を無視した行為にならないか?
日本的な価値観を押しつけることにならないか?
逆に考えて、日本に千個のロザリオを送られても困るだろう。
千羽鶴に平和の祈りを込めるのなら、その呪術的効果を発揮させるためには、人には見せず自分の手元に置いておくのが適切な方法だ。