多くの人が行き交う通りや駅構内近辺で、突然立ち止まったりのろのろと歩いている人が多くなった。
朝夕の通勤ラッシュ時間帯に、人の流れが渋滞しているとき、その原因となっているのが「立ち止まる人」であることは少なくない。
なぜ立ち止まっているかというと、ケータイ電話を使っているからだ。
電話であれば話しながらでも歩けるが、メールの場合には無意識に立ち止まってケータイ画面を見入ってしまうようだ。
自動改札の直前で立ち止まる人もいて、後ろを歩いているこっちがぶつかりそうになってしまうことも度々だ。
そして、ケータイを見入っている人は、自分が立ち止まることで周囲に迷惑をかけていることにまったく気がついていない。
多くの人が、ケータイを手に持って、画面をのぞき込んでいる。
ホームで電車を待っているとき、電車に乗っているとき、歩きながら、自転車に乗りながら……。
それほどまでにケータイが手放せないのか?
これは、ケータイ中毒である。
ヘビースモーカーが、常にタバコを吸っていないと落ち着かないように、ケータイを常に手に持ち見ていないと落ち着かないのだろう。
大人だけではなく、子どもたちにもケータイ中毒は蔓延している。
そんな記事。
小中学生ケータイ所持問題、報告書に異議あり | WIRED VISION
確かに、子どもたちのケータイ利用で問題は少なくない。その要因は「メール」と「インターネット」だ。メールは、子どもたちの間では「即座に返答すること」が友情の証であり、返信が遅れればイジメの原因にもなりかねないという。「おやすみ」のたわいないメールから返信が繰り返され、寝不足になる生徒も後を絶たない。
(中略)
メディアという点では、ケータイはテレビやラジオと一緒である。ならば、言い換えれば「小中学生はテレビの視聴禁止」というのと同じことになろう。
子どもたちに限らず若い世代の大人でも、初めて触れる端末がケータイであり、もっとも身近な端末となったケータイが、思考や行動の原理になっている状態だろう。
ようするに、ケータイという端末とのつきあい方、使い方が確立されていないのだ。
電話機能だけのケータイだったなら、これほど中毒にはならなかったはずだ。電話という端末は、固定電話としてもっと古くからあったから、対処法がわかっていた。それが持ち運べるという便利さになっても、電話は電話である。相手につながらなければ、メッセージを伝えることはできない。留守電があってもたいした違いはない。
しかし、メールだと、一方的にメッセージを相手に送れる。それを相手がいつ見るかはわからなくても、送った方は送信した時点でメッセージが伝わったと勘違いする。
それが「即座に返答すること」といった、過剰な要求になる。
こうしたことは、ケータイ以前にもあった。
かつてのパソコン通信の時代でも、フォーラムやメールでレスポンスが遅いと、無視されているような錯覚をしたものだ。それは相手の都合を無視した、独善的な感覚だったのだ。
そうした時代を通ってきた人たちには、メールは特別なものではなく、対処法も身についている。私の場合、メールの返信が数日後になることも珍しくないし、相手から返信も数週間後ということだってある。それでもぜんぜん気にならないのだ。本当に急いで連絡を取りたいときには、電話をかけるからだ。
ケータイの便利さは、電子的な即時性が錯覚を生み、利己的な判断をもたらす。
ケータイ中毒の原因は、相手を無視した自己完結の中で起きているともいえる。
今は、過渡期なのだろう。
ケータイをいつも手に持っていないと落ち着かない人たちは、まだ端末としてのケータイに適応・耐性ができていない。ケータイの使われ方も、徐々に淘汰されていって、エチケットやルールが作られていくだろう。
固定電話が別に珍しいものではなくなったのも、大衆の中に浸透していったからだ。
ただ、そこにあるだけ。
現在のケータイは、まだまだ珍しくて面白い道具であり、使いこなしていないのが現状だと思う。
余談だが、「小中学生はテレビの視聴禁止」というのは、昔、あったよ(^_^;
私が小学生の頃、通っていた学校ではテレビの視聴時間を制限されていた。1日何時間テレビを見たかと、毎日記録して先生に提出しなければいけなかった。0時間……と、見ていない日があると、ほめられたりした。ローカルルールではあったが、そういう時代もあったのだ。