「【サッカー】批評はこうあるべきの記事」の続きになるが……
以下の記事を読んで、少々カチンときた(笑)。
日本代表の停滞を招いたサッカー媒体の堕落。1敗1分は“メディアの敗北”である | フットボールチャンネル | サッカー情報満載!
明日早朝、コロンビアとの一大決戦に挑む日本代表。厳しい状況ではあるが、可能性は残されている。最後まで諦めずに戦って欲しいし、良い結果になることを願って止まない。
だが、コロンビア戦を前にどうしても書いておくべきことがある。それはメディアのあり方だ。この試合の後になってしまっては勝利の余韻、あるいは敗北の懺悔でうやむやになってしまう。遅きに失した感はあるが、これを逃すともうこのタイミングはやってこない。
コートジボワール戦、ギリシャ戦での停滞はなぜ生まれてしまったのか。要因はさまざまある。キャンプ地の是非、監督の采配、選手の戦術理解、4年間のチーム作り……。その一つにメディアも含まれる。
ザッケローニ監督が就任して以降、メディアとしての責任を果たせた媒体がどれだけあるだろうか。私自身を含めて、反省すべき点は多々ある。一部の記者を除けば、選手や監督の言葉はただただ垂れ流されているだけだ。
取材時も鋭い質問をする記者は少ない。耳を傾けることはあっても、選手に同調してばかりで指摘することはあまりない。日本サッカーは成長過程で、未熟だ。だからこそメディアが日本サッカーの成長をうながすための役割を担わなくてはならない。
なんか、ずいぶん上から目線だな。
「メディアが日本サッカーの成長をうながすための役割」って、どんだけ自惚れているんだろう?
まるで、メディアが監督や選手を指導しているとでもいいたげだ。
おそらく、多くのファンは、メディアにそんな役割を期待していないだろうし、できるとも思ってないよ。メディアは外野で結果論を書いてるだけじゃん。結果論だったら、なんでもいえるんだよ。
前記事の繰り返しになるが、メディアが厳しい批判をすれば、チームが強くなり勝つのか?
だとしたら、辛辣な記事を書かれるスペインやイギリスが敗退したことの説明になっていない。
コートジボワール戦、ギリシア戦のあとも、記事の内容に的外れのものもあったが、けっこう酷評されていた。メディアが酷評すれば、次は勝てるのか?
その因果関係を立証しないと、メディアの役割とやらは絵に描いた餅だ。
日本が強くなったら、「おれたちメディアが厳しく批判したからだ」と自慢するのだろうか?
そんなわけはなかろう。
また、
例えば、吉田麻也。6月7日にブログを更新し、自分が出演する番組の宣伝をしていた。戦う気持ちになっていない。しかし、特に指摘することなくやり過ごしてしまった。
そういう指摘はナンセンス。
選手がプライベートでなにをしようが、自由じゃないか。その自由も許されないのか? 戦う気持ちは内に秘めて、あえて表に出さないようにしているのかもしれない。それとも、テレパシーで吉田の心を読めるとでもいうのか?
なんとなく、古くさい精神論が根底にあるように思う。サッカー選手は、24時間、365日、サッカーのことだけ考えていろとでもいうのだろうか。それが強くなる絶対条件だとでも?
そういう考え方、こういう記事を書く記者の存在は、百害あって一利なし。
海外の選手の中には、プライベートで問題を起こす人がいるが、それでもピッチの上で優れた能力を発揮すれば一流の選手と呼ばれる。問われるのは試合で結果を出すこと。
ブログで決意表明して、戦闘意欲満々の書き込みをしても、試合で負ければなんの意味もない。あえて無言を通すと、メディアはあらぬことを想像で書く。なにかいえば、それについて批判し、なにもいわなければまた批判する。そういうメディアに、高尚な役割があるのか?
強い日本チームを作るにはどうしたらいいか?
早い話、ファン・ペルシが日本チームにいたら、それだけでかなりの武器を手にできる。問題なのは、そういう決定的な戦力がないということだ。
監督でいえば、スコラーリ監督が日本を率いたら、優勝を狙えるようなチームになるだろうか?
おそらく無理。ブラジルような戦力が整っていてこそ、名将の采配が活かせるからだ。
戦力が乏しいチームは、棋士の名人相手に、飛車角ぬきで四段の棋士が挑んでいるようなものだ。
メディアがどんな記事を書いても書かなくても、選手を育成するのはコーチであり、選手自身の努力だ。むしろ、メディアの雑音に惑わされない方が、選手は伸びるのではないかとさえ思う。
結果は試合に出る。
メディアにとやかくいわれて、反省点に気づくようではだめだろう。才能のある選手は、なぜ才能があるのかといえば、自分自身で欠点を克服し長所を伸ばせるからだ。メッシやC・ロナウドは、メディアが育てたとでもいうのだろうか? サッカーをする環境に恵まれ、よき指導者に恵まれたというのはあるだろうが、メディアの存在はあまり関係なかろう。
サッカーを追う記者の中にも真摯な姿勢で報道活動をする者は間違いなく存在する。私は何人も知っている。だが、残念ながら大勢に押されている。今はWEBが普及し、多くの人に記事が読まれる時代だ。情熱を持った記者の原稿は、あふれるばかりの“垂れ流し記事”に埋もれることも多い。ある意味、数の暴力。第二の一億総白痴化は近付いている。
よい記事というのは、もちろんある。
だが、それは選手に向けたものではなく、ファンの読者に向けたものだ。そもそも選手が全部の記事を読むわけがないではないか。
たとえば、植田氏のギリシア戦についての記事。
ザックジャパンの攻撃はなぜ機能しなかったのか? 決定力不足だけでないギリシャを崩せなかった理由 | フットボールチャンネル | サッカー情報満載!
ザッケローニ監督は「自分たちのサッカーをある程度はできた」と試合後に語った。ここがミソで“ある程度”しかできなかったのである。前線に運ぶまではできた。しかし、そこからのイマジネーションはかなり乏しかった。
あまり深い分析はなく、一ファンの私でもわかるようなことしか書いていない。この程度の記事では、メディアの影響力などたいしたことはない。
「“ある程度”しかできなかった」ではなく、「“ある程度”しかさせてもらえなかった」のであって、そこはギリシアが試合巧者だったということだ。原因を日本側に求めているが、そうではなくギリシアがいかに巧く日本を封じていたかを分析するのが筋だろう。録画を何度も見れば、分析はもってできるはずだ。カメラの視野に入っていない部分に、重要なヒントがあるかもしれず、テレビ観戦だけでは不十分だ。そういうところを現地取材で解き明かすのが、記者の使命だと思うし、読者が求めているものだ。
植田氏もパワープレー批判をしているのだが、いったいいつから「パワープレー=悪い戦術」という法則ができたのか?
結果として点は入らなかったが、それはパワープレーが悪かったのではなく、パワープレーの回数が少なかったという解釈だってできる。サイドから崩しても、毎回成功するわけではなく、何度も何度も仕掛けて、10回に1回くらいなら成功するかもしれない。だったら、パワープレーももっとたくさん仕掛けるべきだった、という言い方もできる。
パワープレーで吉田が上がるのは、セットプレーで上がるのと大差ないことだ。一概にパワープレーを批判するのは理にかなわない。
フットボールチャンネルでは、試合ごとに選手の採点をしている。ときに、その採点に首を傾げることもあるが、他誌ではあまりやらないことをやってることは評価できる。
前述の引用部分で、「情熱を持った記者の原稿は、あふれるばかりの“垂れ流し記事”に埋もれることも多い。」とあるが、ならば、数あるサッカー記事を採点するといい。
私が「【サッカー】コスタリカ戦の記事を採点してみる」でやってみたようなことだ。
選手を評価・批判することで選手が成長できると思うのなら、記者も評価・批判すれば成長するだろう。植田氏の理屈ではそういうことになる。
よい記事を埋もれさせないためにも、記事の採点は有効かもしれない。
「メディアが日本サッカーの成長をうながす」という自負があるのなら、それを検証して欲しい。
ある記事を書いたとして、それを選手が読んだのかどうか。読んでいなければ、影響はゼロである。
ある選手が「あの記事を読んで、おれは成長できた」といっているような、そういう具体的な例があるのか。
ものごとには、プラスの影響とマイナスの影響があるものだ。
メディアの記事がプラスに働く場合と、マイナスに働く場合の、どちらが優位なのか。
ある記事がある選手の自信を喪失させ、成長を妨げることだってあるかもしれない。メディアが選手を潰すことがあっても、それは選手が悪いのだと、突き放すことがほんとうによいことなのか。
そういう図式は、体罰を与えれば強くなるという、古くさい体育会系の臭いがする。
ザックジャパンの4年間の総括は大会後にすべきだ。だが、メディアとしては総括してもいいだろう。自力突破の可能性なく3戦目を迎えた。これはメディアとして敗北の結果と言っていい。
なんという驕りだろう。
たとえ敗退したとしても、それはメディアがどうのこうのとは関係ない話だ。メディアは、外野で騒いでいただけで、選手たちのトレーニングを手伝ったわけでも、戦術のアドバイスをしたわけでもない。メディアはチームに対して、なにも寄与していない。
だから、メディアとして勝利も敗北もない。それはメディア諸君の勝手な思い込みだ。
自惚れもたいがいにしてほしい。