ドルトムントの喪失

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 日本が1次リーグを敗退後、その検証がいろいろと行われている。
 誰の責任なのか?といったものから、今後の展開についてなど、さまざまな意見が出ている。
 その多くを見たり読んだりしているが、多いのはジーコ監督の采配や選手選考についてだった。

日本 vs ブラジル FIFAワールドカップ 2006年ドイツ大会 グループF 第3節

日本 vs ブラジル FIFAワールドカップ 2006年ドイツ大会 グループF 第3節。玉田のゴールで歓喜するジーコ監督。

 たとえば、こんな記事。
livedoor ニュース – ドイツW杯の後に・・・プロ意識とは

 その1つとして、ジーコ監督は25日付のドイツの全国紙、ウェルト日曜版において、日本と韓国について「プロ意識、持続力、勝ち抜く精神力に欠けている。何よりも、まだ成熟していない。4年前はそういった不足をホームの利点でカバーした」と分析し、日本の現状については「(Jリーグの)10年ほどの短い期間で、伝統ある欧州のレベルに持っていくのは無理」と語っている。(共同通信の記事参照)

 このような発言はジーコ監督の責任転嫁の発言とも取れる。要は自分の采配についていけるだけの実力は、日本にはなかったということである。まさに無責任な発言と言える。また、この時は日本の監督という立場であるにもかかわらず、韓国についても言及しているのはおかしい。

 結局、結果がすべてのプロの世界だから、勝てばなにも文句をいわれない。
 負ければ批判される。それは仕方がない。
 上記の責任転嫁ともとれる発言は、監督業を続けていくための、自己弁護なのだろう。欧州での監督を希望しているようだが、そこでどういう結果を出すかで、ジーコの発言の真価が問われる。欧州であれば、もう選手が未成熟などと言い訳はできないからだ。

 予選では、ジーコ・マジックではなく、ジーコ・ミラクルが予選突破を勝ち取った。
 そのミラクルは、本大会前の親善試合のドイツ戦まで続いた。
 だが、そこがピークだったのだ。結果論として。

 ジーコ監督は、タイプとしては野球の長嶋監督と似たタイプだ。
 理論や分析による客観的な判断よりも、そのときの心情や「直感」で采配する。それが当たればミラクルだし、外れれば敗退なのだ。北朝鮮戦の大黒投入などは、直感と結果が絶妙にマッチした結果だった。

 さて、過去の劇的な試合には、象徴的な呼び名が付けられた。
 ドーハの悲劇マイアミの奇跡ジョホールバルの歓喜、など。
 では、今回の1次リーグ、ブラジルとの最終戦のドルトムントは、なんと呼ばれるだろう?
 いろいろと考えてみたが、『ドルトムントの喪失』あたりではないかと思った。
 期待が失われた、自信が失われた、日本のサッカーらしさが失われた……、そしてワールドカップのアジア枠が、減らされる可能性があるともいう。その一因が、日本の不振なのだとされている。
 失ったものが多かったように思う。

 だが、ジーコ批判ばかりが多いとはいえ、ジーコが日本サッカーを変えたことは、事実だろう。
 本大会で、それが発揮できなかったことが、残念だったのだ。

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