嫌いな人・好きな人の理由

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 人はひとりでは生きられないから、なにかしらコミュニティに属している。
 最小単位は家族だろうが、ご近所、学校、会社、サークル等々、人々との関わりを持っている。
 だが、その関係の中で「好きな人」と「嫌いな人」がいる。
 人間関係は選択的ではあるが、必ずしも望んだ選択ではないこともある。好むと好まざるにかかわらず、つきあわなくてはならないことだってある。それゆえ、「嫌いな人」とも関係することになる。
 で、なぜ「嫌いな人」は嫌いになってしまうのか?
 ということについて、ちょっと古い記事から。
Business Media 誠:人が人を嫌いになるメカニズム (1/2)

人が人を嫌いになる時、シャドーの投影というものが起きている! ということです。
(中略)
 人は、子どものころからの成長過程で自分が不要だと思った自分の部分をシャドーというところに切り離して捨てます。
(中略)
 場合によってはメンタルヘルスを害するぐらいになります。そういう時に、自分が抑圧している部分を、他人が持っているかのような行動が認識されるんですね。そうすると、その人のことが大嫌いになる。

 なるほど、と納得してしまった。
 あの人のあの部分が嫌い……というのは、自分の中にある嫌いな部分だという説。思い当たることもある。ただ、全部が全部、そうではないが。
 この記事で紹介されていた本、「精神分析入門」を買ってしまった。

精神分析入門 (上巻) (新潮文庫
精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)

 嫌いになる理由が「シャドー」にあるのなら、好きになる理由はその逆ということになる。
 価値観や考え方が似ているとか、趣味や興味の対象が似ているとか、自分との共通点が多いほど「好きな人」になる。
 あるいは、自分が目指している将来像や理想像に近い人は、目標とする人や尊敬する人として、もっとも好きな人になる。実際の面識はなくても、そういう人からは、いろいろな影響を受けたりする。

 「好きな人」が異性であった場合には、もう少し違った要素が加味される。つまり、恋愛の対象となる人のこと。
 価値観や趣味が似ていることは、好きになる条件ではあるが、男女関係ではそれだけではない。
 もともと男と女という、肉体的にも精神的にも違う立場だから、似ているところがあるといいつつも、同性の友人のように似ることは少ない。むしろ、違っていることの方が多い。
 共通点もあるが、まったく違う部分もあり、その自分にはない利点に心ひかれることがあるように思う。

 私と妻は、共通した趣味も多いが、同じ好きなことでも、好きの好きようが違っていたりする。
 たとえば、ある映画やアニメを観ていて、私が笑うようなシーンがあっても、妻はどこが笑えるのかわからないという。逆に、妻にウケているシーンで、私には「え?」ということもある。
 そんなとき、同じものを観ていても、見かたが違っていることに新鮮な驚きがある。それが面白かったりする。
 妻は私によく質問をする。
 テレビやネットで出てくる言葉や概念の意味を、私に聞くのだ。自分で調べるより先に、私に聞くのは、私がなんでも知っていると思っているのだろう。たいていのことには答えられるが、わからないことだってある。
 だが、いろいろな質問を発する妻の疑問が面白い。
 物事のとらえ方が独特で、そういうところに疑問を持つのか、と感心してしまうのだ。
 私には気がつかなかった視点を提供してくれる、ユニークな存在だ。

 芸能人の恋人や夫婦が別れるときに、「性格の不一致」とか「価値観の不一致」といった理由が挙げられる。
 そもそも一致することの方が不自然なのだから、理由のようで理由にはなっていない。
 男女で「違い」があるから理解し合うことが必要なのだし、その違いを楽しむことができれば、面白い関係でいられると思う。

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