冬季オリンピックがスポーツニュースだけでなく、スポーツ以外のところでも話題になっている。
不正審判、ドーピング、コマーシャリズム、運営組織の腐敗……。4年に一度の祭典は、4年に一度の疑惑を露呈しているようだ。
オリンピックの精神とはなんだろう?
参加することに意義がある……とは、大昔の話。そもそも、それすらも建前にしかすぎなかったのだが……。
アマチュアの選手だけが参加していた時代よりも、プロの参加が認められるようになってからの方が、なにかと問題が多いように思う。
国家単位で成績を競っているのだから、国家間の思惑が働くのは当然の帰結だ。スポーツと政治を切り離すなどということは、机上の空論にすぎない。
真にスポーツ選手だけの競技会にするならば、国家単位での参加出場枠というのを廃止すればいいじゃないか?
誰でも国を問わずに参加できる大会。選手が参加するためにスポンサーと提携するのも自由。4年に一度の本大会の前に、3年かけて予選をやる。そこで勝ち上がってきた人が、オリンピックに出場する。そうすれば、選手を決定する不透明な選考方法でもめることもない。選手がアマチュアであろうがプロであろうが、問題にしない。企業が選手に投資するのも自由。
選手は個人(またはチーム)で参加の意志をエントリーする。どこかの組織が選ぶのではない。開催場所はわざわざ新たに造る必要はない。あるものを使えばいいのだ。選手の出身国はただの経歴となり、国の威信や利益を背負って競技をすることもない。結果は選手個人に与えられる。
オリンピックは、個人が主体の大会にすべきだろうと思う。国同士が対戦するから、利害が大きくなってしまうのではないか?
とはいうものの、もともとオリンピックの起源をたどれば、代理戦争ではあったのだ。
オリンピックの起源は、紀元前776年にまで遡る。この年から紀元前393年までの間、4年に一度の割合いで293回途切れることなく続けられた。それが古代ギリシャで行われていた祭典競技『オリンピア』であり、オリンピックの原形となっている。しかしその後、ギリシャがローマ帝国に征服されたことで10世紀以上も続いた伝統あるスポーツの祭典は最初の終止符を打つことになった。
オリンピアの開催期間中は、対立する国々も停戦して競技を行った。血を流す代わりに、汗を流したわけだ。同時にオリンピアは、神々への奉納を目的とした神事でもあったのだ。古代では生け贄を捧げることもあった。
しかし、記録によれば、オリンピック史上最初の競技となったペロプスとエリス王との戦車レースは、いかさまだったという。ペロプスがエリス王の御者たちを買収し、王の車軸を壊すよう仕組んだのだ。
やがてローマ人も競技に参加するようになると、事態はますます悪化した。皇帝ネロは、相手のいない「演劇」の種目を設けて「優勝」し、戦車レースでも途中で戦車から落ちたのに勝者となった。5000人という大護衛団の手で、結果が改ざんされたのだ。
西暦394年には、キリスト教徒のテオドシウス一世が、オリンピックを「異教の祭祀」とする勅令を出し、競技は禁止された。
近代オリンピックは、1800年代後半にフランスの教育学者、ピエール・ド・クーベルタン男爵が中心となり、『オリンピア』を復活させる形で、1896年4月に第1回大会をアテネで開催したのが始まりである。
ようするに、古代からスポーツという形であっても、国家間の利害によって利用されてきたということだ。
その主たる原因は、国家や国旗を背負っているからだ。純粋にスポーツの祭典とするならば、国家は排除するのがもっとも理想的だろう。
……と、今回のソルトレークは、あまり面白いものがないというのが、実感だね。長野の時は日本での開催ということで、注目度も高かったが、ソルトレークはスポーツニュースの結果だけ見ればいいやって感じだ。
結局、オリンピックが重要なのは、選手だけじゃないのかな。彼らには目標であり、練習の成果を出す、ひのき舞台だからね。
本来、それで十分ではないかと思う。