以下のような記事が、購読しているメールマガジンにあった。
宇宙は無限と言いますが、地球上を人間が支配してからはまだほんの数千年しか経っておりません。
かつて恐竜が絶滅したように、人間が滅びないとは誰も証明出来ないはずです。
今、日本は、いや人類は大きな岐路に立たされているのだと思います。もう国レベルの問題ではなく世界中が手を取り合って人類存続を話し合う時期に来ているのだと思います。
国によって言語が違う事自体おかしな話だと思います。
とにかく全ては恐慌の起こる前に誰かが先頭に立ち、世界を一つにするべきだと一地球人として思う今日この頃です。――――「電子メールマガジン オリーブ!ニュース」2002/03/04 第00641号より
う〜む……、いやはや、なんというか……(汗)。
たしかに正論も一部あるのだが、やや短絡的な発想ではないだろうか? ある意味では、日本人特有の典型的な発想だと思う。
多様な人種、多様な言語、多様な宗教で成り立っているアメリカでは、こういう発言は差別的かつ特定の人種・言語のグループだけを代表しているような発言ととられかねない。
「国によって言語が違う事自体おかしな話」というが、では世界の共通語を英語(あるいはフランス語でもアラビア語でもいいのだが)にすると多数決で決定されたら、私たち日本人は日本語を明日から使わずに捨てられるだろうか? 幾千年の間築かれてきた、日本人としての文化は、日本語とともに発展してきた。その文化をある時期を境に、リセットできるだろうか?
世界がひとつの言語で統一されれば、たしかに便利だろう。現実的には英語が多くの国で通用する言語となっているが、かといって日本の文化は英語には置きかえられない。同様にイスラムの世界は、アラビア語の上に成り立っている。それらを否定しないまでも、共通語という枠の外に追いやることは、ゆるやかな衰退へと導くこととなる。
言語というのは互いに影響しあって、長い時間をかけて変化していくものだ。日本語の中に英語が入りこんでいるように、英語の中にも日本語が少しずつ入りこんでいく。それは必然だが、言語の融合が積み重なって、あらたなひとつの言語として統合されるには、千年単位の時間がかかる。西暦3000年には、複数の言語が融合した言語が使われているかもしれない。だが、100年〜200年では無理である。
第二公用語として、他言語を使うことは可能かもしれない。それが英語かもしれないが、そう思うのは英語圏の国の政治的・経済的・軍事的勢力が優勢だからだ。仮に今後アメリカが急速に衰退して、イスラム圏が世界を席巻するようになれば、第二公用語はアラビア語になることだってありうる。
ここにも力の論理が働いている。既存のどれかの言語を世界共通語とするのは、その言語を使用している国の勢力下に収まることを自動的に意味している。アメリカに従属しているような日本では、英語が共通語になることに抵抗はないだろう。だが、世界の大部分の国では、受けいれられない話であろう。
言語の世界標準を決めることが、世界の平和や地球人としての確立と自覚ではないはずなのだ。
多様性を保ちつつ、それぞれの言語や文化の違いを認識した上で、ひとつにまとまることこそが地球人としての第一歩なのだ。
世界の人々を日本人化することが、地球人ではない。
もっといえば、人類はいつか滅びる。
それが数百年後なのか、数万年後なのかは別にして、永遠に続く文明などありはしない。
恐竜のことを例えに出しているが、ひとことに恐竜といっても、あるひとつの種が恐竜時代といわれる数億年の間、栄えたわけではない。
恐竜というくくりかたをするならば、人類は“ほ乳類”という枠の中に入る。人類だけが特別な種だとする考えかたは的を射ていない。
生物である人類は、これからも進化あるいは退化していく。テクノロジーによって自らを変えることのできる人類は、自然の進化以上に速く変容していくだろう。数千年後、数万年後には現在とはまったく違う姿や能力を身につけているかもしれない。
ネアンデルタール人がクロマニヨン人に駆逐されていったように、現世人類は未来の新しい“真”人類に淘汰されるかもしれない。
滅びることは必ずしも、マイナスばかりではないのだ。新しい種の誕生によって、古い種が滅亡するのは、進化の必然でもある。
そして進化の法則は、生き残ったものに繁栄をもたらす。生き残るのが、旧人類である今の私たちとは限らないのである。