安保法制反対の運動は続いているが、SEALDsと賛同者達のデモの様子を見ていて、ある風景と似ていると思った。
それは「祭」で、神輿をかついで街を練り歩く情景だ。
「ワッショイ! ワッショイ!」
「民主主義ってなんだ!
憲法守れ!
戦争反対!」
ラップのリズムに乗って軽快に叫ぶ声の調子が、神輿のかけ声に近い。
ああ、これは彼らの祭なんじゃないか?……と思った。
そんな思いを裏付けてくれるような記事のひとつ。
SEALDsの政治戦略に触れ、思わぬ「炎上」 為末大、「正論なのに…」と擁護の声も : J-CASTニュース
元陸上競技選手でスポーツコメンテーターの為末大さん(37)が、安全保障関連法案に反対する学生団体「SEALDs(シールズ)」についての分析記事にツイッターでコメントしたところ、思わぬ波紋を広げてしまった。
(中略)
安田さんは、香港の雨傘革命(14年9月)も同様の理由を原因に失敗した側面があると指摘。一方で、台湾のひまわり学生運動(14年3月)では学生運動の「純粋性」を克服し、戦略的な交渉を行ったことなどが成功につながったとの見方を示した。SEALDsについては具体的な分析を控えたが、「成功例」であるひまわり学生運動と彼らのスローガンを併載することで、SEALDsが政治目標を達成できなかった理由の一端を暗に示した。
(中略)
安田さんの記事は、「廃案」が目標であることを前提に書かれており、為末さんも同じ認識で話を進めていたようだが、「成果のありなしは参加者それぞれ」だとする声や「参加者は次の選挙等を見据えており、廃案がゴールではなかったのでは」といった指摘
「成果のありなしは参加者それぞれ」ということは、ようするに自己満足だよね?
「反対運動に参加した」という自己満足。廃案という目標を達成できなくても、デモに参加したから達成感があるということなのかな?
それって、「祭」で神輿をかつぐのと似てるよね。
祭を盛り上げ、仲間との連帯感を深め、興奮状態で練り歩く爽快感。神輿の担ぎ手でなくても、傍観している観客までもが高揚感に浸れる。うちの近所でも、夏になると阿波踊りのイベントをやっていて、太鼓に鉦と笛が鳴り始めると、見ているだけでも気持ちが高ぶる。
デモのかけ声をラップに絡めているのは、祭の演出にもなっていると思う。
「デモや議会妨害は民主主義じゃないだろ」でも書いたが、SEALDsが政治的目標を達成するには、政党もしくはそれに準ずる政治的組織を作らないと、ただのお祭り騒ぎに終わってしまう気がする。
「参加者は次の選挙等を見据えて」というのなら、なおさらだ。野党が一致団結して、ひとつにまとまることは考えにくいから、現状の野党に期待することはできない。
政治の世界は、ドロドロした策謀と裏取引の世界であり、建前と本音を使い分けて、駆け引きをしていくものでもある。
ある意味、汚い世界だ。
その中で、自分たちの主張を押し通すのに、理想だけでは難しい。
仮に、将来の選挙で野党もしくはSEALDs党(仮)が政権を取った場合、安保法制を廃案にするためには、強行採決も必要になってくるだろう。強行採決を批判していたが、自分たちが採決を決められる立場になったとき、強行はしないと断言できるだろうか?
強行採決しなければ目標を達成できないとなれば、強行するしかなくなる。
大衆の大規模なデモや活動は、しばしば名称がつく。
チュニジアの「ジャスミン革命」に端を発した「アラブの春」、前述の記事にもある香港の「雨傘革命」、台湾の「ひまわり学生運動」、古くは「ワシントン大行進」など。
SEALDsが母体となっているデモには、これといった名称がつけられていない。戦略的にいえば、活動を象徴する名称がないというのは、限定的な活動に終わってしまう一因にもなりそうだ。抗議活動にも広報戦略というのは必要なはずで、SEALDsなどという中二病的な名前は、若者には共感を呼んでも、広く受け入れられるものではないように思う。
私なんかは、シールズというとNavy SEALs(ネイビーシールズ)を連想してしまうので、軍隊的なイメージなのだが(^_^)。
いずれにしても、これからも活動を継続して拡大していくのであれば、組織がしっかりしていないと統率できない状況に陥るのが心配だ。
名称がつくほどの大規模な反政府活動には、暴動や暴力的な事件がつきものなので、活動を拡大化していけば理念に反する行動を起こす人が必ず出てくる。
祭の高揚感は、長続きはしない。
さらなる高揚感を求めて、活動が過激化していく懸念もある。
そうならないためにも、SEALDsは政治団体としてちゃんと組織した方がいいように思うのだが……。
汚い政治の世界に踏み込む覚悟で。