自民党の大勝に終わった参議院選挙だったが、選挙の分析とか政治的な分析は多くの人が論じているので、私がとやかく書く必要もなかろう(笑)。
それよりも、初のネット選挙運動がどうだったのかの方が関心がある。
「ネット選挙、解禁」などともいわれていたが、限定的な解禁というか制限解除だけだったので、できることとできないことがあり、できない理由には首を傾げるような屁理屈もあった。
ネット選挙で、得票にどれほどの効果があったのかの、具体的なデータは見当たらず、候補者の感触だけだったようだ。
そんな中で、ネットだけを使った選挙運動では、当選できなかった……という記事が以下。
「ネット配信のみで選挙戦」は惨敗 菅元首相の「自民落選運動」も空振り (1/3) – ITmedia ニュース
「ネット配信のみで比例区で選挙戦を戦うという、前代未聞の選挙戦に挑みましたが、結果は最下位、惨敗でほとんど票に結び付きませんでした」
参院選で民主党から立候補した樽井良和氏は落選を受け、ツイッターでこうつぶやいた。
出馬した候補者の人たちや、各政党の選挙対策をしていた人たちに、大きな誤解というか幻想があったように思う。
「ネットで好意的な反響や支持があれば、得票につながる」
……という幻想。
そのバロメーターとして、フォロワーや「いいね!」の数を競っていたりしたのだが、何万人ものフォロワーがいたとしても、それが全部好意的なフォロワーとは限らず、ただの冷やかしだったり、ボタンをポチッと押しただけの数だったりする。ある人をフォローしているからと、逐一つぶやきに目を通しているわけでもなく、タイムラインの中に埋没しているだけの場合も多々ある。
Twitterが日本にも浸透し始めた頃、ひたすらフォロワーを増やすことだけに夢中になっている人が、けっこういた。フォロワーの数が、獲得したHP(ヒットポイント)かのように、誰でもいいからフォローしてもらおうとしていた。今では少なくなってしまったが、劇的にフォロワーを増やすためのツールやサービス(無料あるいは有料)もあった。
今回のネット選挙で、フォロワーや「いいね!」を金で買った候補者もいたようだが、そんな様子を見ていると、5~6年前に戻ったような感じがする。というより、政治の世界が、やっと5~6年前のレベルに近づいたともいえる。
Facebookには「いいね!」ボタンがあるが、逆の「だめだね!」ボタンがないところがミソ。ネガティブな反応は受けつけないから、ポジティブな反応が多いように錯覚してしまう。両方のボタンがあったら、「いいね!」が1万票あっても、「だめだね!」が2万票であれば、好意的ではない数の方が多いことになる。それがわからないことになっているのが、うまくできている仕組み。
フォロワーや「いいね!」の数が増えていくことで、「支持されている」と錯覚してしまうのだ。
「いいね!」と「だめだね!」のボタンがあったなら、ある候補者に対しては「だめだね!」が多くなって、支持されていないことがわかったかもしれない。ネット選挙は、ネガティブな意思表示を集められない、あるいは受けつけたくない思惑が働くから、本当の状況が見えなくなってしまう。
選挙期間中、ある民主党の幹部が街頭演説などの感触として、「みなさんの応援と期待を実感している」とかいうコメントを出していたが、応援や支持の意思表示をする人たちが演説する人の周りを囲んでいるわけで、支持しない人は素通りするだけだ。支持者だけに囲まれているから、ネガティブな反応が見えなくなる。そして、結果は民主党の惨敗だ。
ネット選挙での支持・不支持をある程度判別するには、「いいね!」と「だめだね!」の両方のボタンが必要だ。「いいね!」だけの意思表示を見ていると、幻想を見ることになる。
とかく、ネガティブな意思表示や意見は見たくないものだが、選挙の戦略としてネットを活用しようとするのなら、客観的な指標が求められる。自分に都合のいい意見だけを指標にしていたら、ネット選挙の手応えが現実の得票に反映しない結果を招く。
ネットでの反応には、選挙権のない人たちも含まれている。フォロワーや「いいね!」の数の中には、未成年も少なからず含まれていたと推測できる。
また、若者世代の投票率が低いことは、前々から問題にされていることだが、投票に行かない人からの反応が集まっても、あまり意味がない。
ネット選挙に対して、なんらかのリアクションをした人たち(フォロワーになったり「いいね!」をクリックした人たち)の中で、選挙権がない人たちや投票には行かなかった人たちのことを……「ゴースト支持者」、とでも呼ぼう。
実際に投票した人たちは、「リアル支持者」だ。
何万人ものフォロワーや読者がいたとしても、その内訳で、「ゴースト支持者」と「リアル支持者」を見分ける術がないと、無駄な努力をしていることにもなる。「ゴースト支持者」に向けて、どんなに訴えかけても徒労に終わるだけだ。
前出の記事の続きで……
「ネット配信のみで選挙戦」は惨敗 菅元首相の「自民落選運動」も空振り (2/3) – ITmedia ニュース
菅氏は遊説で聴衆がほとんどいなくても、動画を「繰り返し発信」することで、ネットを見る全国の有権者の理解が深まると期待したが、「実験」は失敗に終わった。
これまた「幻想」だ。
一方的に発信するだけで、理解してもらえる、理解してくれるはず……と、勘違いしてしまう。もっとも、菅氏の演説は上手いとはいえず、聴衆を魅了するような語り口でもなく、しかも言ってることの論理が破綻しているから説得力が欠けてしまっている。そんな演説を、どんなに流したところで、理解以前の問題ではある。
ネット上には、菅元首相に対する批判的な意見が多数見られたが、氏はそれらをどれほど見ていて、真摯に受け止めていたのだろうか?
批判的な意見には耳を貸さず、支持してくれる人だけの意見を聞くのは、「裸の王様」と同じ。自分に対する客観的な評価を見ることができたなら、あれほど暴走することもなかっただろう。
ニュースで、ネット選挙の話題が流れたときに、うちの彼女と交わした会話。
諫山「ネット選挙っていったって、ネットから投票できるわけじゃねえからな」
彼女「興味な~い」
諫山「ツイッタとかやってる若者は、そもそも選挙に行かねぇだろ」
彼女「だよね(笑)」
諫山「おまえ、候補者のサイトとか見るか?」
彼女「見ない」
諫山「きっと炎上するヤツが出てくるぞ」
彼女「どうでもいい」
まぁ、彼女は政治には興味がないので、ネット選挙は冷めた目で見ていたようだ。ネット選挙解禁といっても、そもそも政治に興味ない人たちには、どうでもいい話。選挙に関する情報が氾濫していても、彼女には雑音でしかない。
政治に興味がある人にとっては、いろいろな情報を受け取ったり探したりできるようになったともいえるが、同時に無駄な情報や不確かな情報などの雑音も増えた。
結局、ネット選挙の意味はなんだったのかと考えると、以前は選挙違反だった行為が、違反ではなくなった……ということが一番の成果なのだろう。
ネット選挙を解禁する一方で、各新聞・テレビによる選挙期間中の世論調査は相変わらず野放しなのはいかがなものか?
「自民党、圧勝の勢い」などとあおられると、出走する前から結果がわかってしまう競馬みたいものになってしまう。出来レースになればなるほど、関心が薄れる。投票率の低さの責任の一端は、新聞やテレビにもあるのではないか?
蓋を開けるまで、結果はわからない状態にしないと、選挙の意味と価値が低下する。世論調査の結果通りになると、選挙は結果を追認するだけになってしまう。開票が始まると、開票率1%でも当確が出てくるが、選挙期間中の支持政党・支持者調査は投票される前から当確を出しているようなものだ。
選挙世論調査を、選挙期間中もしくは投票日前に公表することを禁止しているのは、イタリア、カナダ、オーストラリア、スペインなどだが、日本はこと細かに調査・公表されるから、それによるアナウンス効果(バンドワゴン効果とアンダードッグ効果の相乗)は、かなりあるものと推測される。周りの意見に流されやすい国民性もあるから、世論調査に左右される度合いは強いように思う。
今回のネット選挙で、私が一番感じたことは、民主党に対する批判が根強くあったということだ。民主党に対する、「怒り」「失望」「嫌悪感」があちこちに渦巻いていたように思う。
しかし、民主党の人たちは、そのことに対して危機感を持っているようには感じられなくて、支持者に向かって相変わらずの論調だった。目と耳をふさいでいるのか、状況に対する判断力がないのか、唯我独尊なのか、勝てると思っているのが不思議だった。
いずれにしても、ネット選挙でどれだけ投票行動に結びついたかの、追跡調査が必要な気がする。100万人のフォロワーがいたとしても、そのうち何人が有権者で、何人が投票したのか……など。その効果を、データとして収集しないと、ネット選挙の有効性や効果は計れない。
冒頭の記事にあるような、1議員の落選を例として、ネット選挙は失敗だった……とは断定できない。ただ単に、民主党が嫌われていただけかもしれないのだ。
何度かのネット選挙を経験するまで、候補者も有権者も、ネット選挙の使い方や意義を手探りするのだろう。
ネット選挙のスキルを高めることで、「ネット選挙の幻想と現実」のギャップが埋まる……ことを期待したい。