害虫や雑草を駆除することで、農産物の生産性を上げるために使われるのが農薬。
駆除とは、対象の生物を殺すことであり、農薬は毒である。
人間には無害……などと都合のいい農薬などあるはずもない。
微量の農薬成分で人間が死なないのは、個体として大きく、致死量のしきい値が高いからだ。許容範囲があるのは、冗長性のお陰でもある。
農薬が発達障害の一因かもしれないという記事。
発達障害リスク「農薬」に対策遅れる日本 禁止どころか緩和も (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
発達障害の原因として農薬との関係が注目されている。1990年ごろから急速に広まったネオニコチノイド系農薬が、子どもの脳の発達に悪影響を及ぼす見解が世界で報告されているのだ。そんな恐ろしいことが指摘されているにもかかわらず、日本の対策は遅れている。
(中略)
国内における「ネオニコチノイド系農薬の出荷量」を見ると、使用が増えていることがわかる。発達障害の児童生徒数の推移と比べると、相関関係があるのではないかと疑いたくなる。
子どもへの悪影響をはじめ、様々な環境問題につながるとして、EUはネオニコチノイド系の3種類の農薬の屋外使用を、昨年禁止した。もともとはオランダが14年に、フランスが16年に禁止を決めている。その他、韓国も14年に、ブラジルは15年、台湾は16年に、それぞれ使用を禁止している。
ところが、日本に目を向けると、禁止どころか、ここ数年はネオニコチノイド系農薬の食品の残留基準をむしろ緩和しているのだ。
(中略)
農薬メーカー側は、「定められた用法用量で使用すれば毒性や環境への負荷は低い」などとして、使用禁止には否定的だ。行政側も「安全性は担保されている」との立場で、規制を強化しようとはしていない。
それでも、ネオニコチノイド系農薬と子どもの脳の関係を指摘する研究があることは確かで、その数は増えている。
ネオニコチノイド系農薬だけを問題視しているが、じゃ、ほかの農薬ならいいのか?……というと、そんなに単純な問題でもなかろう。
害となる対象生物を殺す農薬であれば、種類を問わず人にもなんらかの影響はある。ないとする方がおかしい。無害だというのなら、その農薬を食べてみたまえ。
「直接食べても安全な農薬」があれば、さぞかしヒット商品になるだろう。もっとも、それでは害虫や病原菌を駆除することはできないだろうけど。
「ネオニコチノイド系農薬の出荷量」と「発達障害の児童生徒数の推移」の相関関係を指摘してもいるが、それをいうなら「花粉症患者数の推移」や「児童虐待数の推移」だって相関関係にあると見ることもできる。
人間の体は、化学反応で機能している。
農薬に使われる成分は、細胞レベルでダメージを与えたり、誤作動を引き起こしたりする。
花粉症は免疫系のエラーであり、発達障害は脳の発達や脳機能のエラーだ。そこには様々な化学物質が関与していて、正常な反応を阻害する化学物質があるとエラーを起こす。
虐待をする人は、感情をコントロールできなかったり、暴力衝動を抑えられなかったりするわけだが、それは脳の機能障害でもある。そこに農薬成分が関与している可能性はある。
もっといえば、不妊症の増加も相関関係があるかもしれない。
かつて「環境ホルモン」として問題になったが、最近ではいわれなくなった。
環境ホルモンの原因となっていたのは、農薬、医薬品、プラチック類だった。抗生物質などの医薬品は、尿や便とともに体外に排出される。
これらの化学物質は、工業化の拡大とともに増え、自然環境に流出し続けた。
高度成長時代といわれた、1950年代〜1970年代は、公害の時代でもあった。
空気はスモッグでかすみ、悪臭が漂い、川や海の沿岸はヘドロで満たされていた。そんな時代に生まれ育ったのが、私たち世代だった。
その世代が、現在は50〜60歳代になっている。
この世代は、様々な化学物質に曝露されてきたので、その影響は少なくないはずだ。
その子供世代が、30〜40歳代。花粉症を始めとした様々なアレルギーが問題になった世代でもある。
そのアレルギー体質は、次の世代にも引き継がれて、より深刻になっているのが現在の子供たち。
意図したわけではないにしても、3〜4世代にわたって環境に流出した化学物質が、人間にどういう影響を及ぼすかの実験をしたともいえるのが、この60〜70年間だろう。
私が常々書いていることだが、私たち世代以降の世代は、長生きしないと思う。
体の中は、長期間にわたり蓄積された化学物質でボロボロなんだ。
生産性や便利さの追究で、世の中は快適になったようにも見えるが、それには代償がつきまとっている。
その代償のひとつが、農薬による化学物質の汚染だ。
微量であれば安全というが、それは致死量ではないという意味であって、長期的な曝露についてはなにも保障していない。
じわじわと自分たちの首を絞めているのかもしれない。