TVのワイドショーでは、ある周期で不可解な犯罪や異常な犯罪が話題となっている。少年犯罪の多発や、動機が不明な殺人や誘拐など、これでもかというほどバリエーションが出現する。
多くのコメンテーターが必ず口にすることは、「理解できない」とか「常識では考えられない」とか「動機の解明が今後の対策に必要」といったものだ。異常な犯罪を社会現象としてとらえる風潮があるが、それは真実の姿を映しているのだろうか?
ある意味では、現代という世情を反映している面もあるだろう。昔と今では犯罪の動機が変わったという説もある。昔は貧困から犯罪に走ったとし、現在では違った動機になったとか。しかし、この分析はいささか一面的なとらえ方でしかないように思う。経済的に貧困であれ、裕福であれ、犯罪を犯す人間とそうでない人間がいる。比率からいえば、今も昔も、圧倒的に犯罪者の方が少ないのだ。動機としては根拠が乏しいファクターでしかない。
ある犯罪が世間を騒がすと、犯罪者の幼少の頃からのプロフィールが詳細に紹介される。友だちが少なかった、卒業文集で奇抜なことを書いていた、真面目だったが性格は暗かった、アニメやホラーが好きだった……ETC。それらがいかにも「犯罪者」になる過程であるかのように扱う。だが、多かれ少なかれそうした部分は誰にでも当てはまることだ。世間は犯罪者はなにか特別な過去があったはずだと規定して、パズルを望みの絵になるように組み合わせている。
そもそも「常識」とは、なんなのだ?
人に迷惑をかけてはいけない、人を傷つけてはいけない、人を殺してはいけない。これは「常識」か?……たぶん、そのとおりだ。しかし、一方で基準は曖昧だ。
タバコのポイ捨てをする人は多いし、駅前に自転車を無断駐輪している人もあきれるほど多い。些細なことかもしれないが、人の迷惑を気にしない「常識人」は多いのだ。彼らは法律や条令を犯している犯罪者なのだ。処罰されることがほとんどないというだけで、駅前の放置自転車の数だけ、小さな犯罪者は闊歩している。そうした人の中から異常な犯罪者がでたら、「あの人はいつも無断駐輪していた非常識な人でした」と、紹介されるのだろうか?
「赤信号、みんなで渡ればこわくない」
という心理が働いて、小さな犯罪は容認されると思っている。そういう人たちは常識あるいはモラルに対して、不感症になっているのだ。タバコをポイ捨てする人は、ゴミの分別にも無神経になるだろう、リサイクルとか物を大事にすることもしないだろう、さらには環境問題にも関心がないだろう。小さなことすら守れない人間は、どんどん無神経になっていく。加えて、みんながやっているなら自分がやっても問題ない、という「常識」を持つようになるのだ。
放置自転車の数は、世間に身勝手な人間がいかに多いかを物語っている。それは異常なことのはずだが、もはや当然の風景と化している。他人に対して無関心なだけではなく、自分の行為に対しても無関心になっているのだ。
殺人者の心理もそれに通じる。人の痛みがわからないのではない、理解の以前に無関心なのだ。殺すという行為に無関心なのであり、その結果自分にふりかかる状況に無関心なのだ。命の大切さが理解できないのではなく、そもそも理解することに無関心でしかない。そうした心理を、他人が「理解できない」のは当たり前である。
人を殺してはいけない……ということも、絶対的な論理ではない。なぜなら、殺人者は裁判によって死刑を宣告されれば「殺してもいい」からだ。また、過失による殺人(交通事故など)や精神的な問題がある殺人者は、減刑される。殺された人間にとってみれば、どういう状況であれ殺されたことに変わりはない。つまりは、殺人にも許される殺人と許されない殺人があるということだ。判断は曖昧であり、常識も曖昧だ。
あるコメンテーターは異常な殺人者を「許せない」といい、「死刑にすべき」と言い放つ。殺人を糾弾しながら、犯人を殺せ、といっているのだ。これでいいのだろうか? 多数決で殺す理由があれば、人は殺してもいいのか?
良くも悪くも、現実はそうなっているようだ。