リアルとバーチャルの狭間(1)の続き。
リアルとバーチャルの境界線を考えるとき、私たちが感じるリアルとはなんなのかということが問題になる。
「現実と空想の区別がつかなくなっている」
こういうコメントが、異常な少年犯罪が起きたときに、よく耳にする。
このコメントは大人の見識でもあるが、では、当の大人は区別ができているのだろうか?
極端な例ではあるが、神が世界を作ったと進化論を否定する人たちにとっては、人間が猿から進化したというのは妄想であり、神が人間を作ったというのがリアルである。
卑近な例でいえば、国会答弁で自衛隊の燃料補給で、イラク戦争への転用はなかったと嘘を貫き通そうとしている政治家には、転用されたと容易に推測できる資料はバーチャルであり、約束が守られたというのがリアルなのだろう。
嘘をつく……というのは、現実と空想を意図的に誤魔化すことだからだ。
子どもが現実と空想を区別できないのは当然だ。なぜなら、区別する……判別するためには経験から学ぶ判別のための情報フィルターが必要だからだ。子どもはそのフィルターの目が粗い。だから、空想がすり抜けてしまって、現実と混濁する。
しかし、子どもにとって、混濁していることで不都合を感じることはない。大人は困惑して理解できないかもしれないが、子どもにとって夢の中の出来事も、存在しない仮想の友達や架空の生き物も、リアルに感じられる。
子どもの脳は、空想であってもリアルであると認識しているからだ。
自分が子どもだった頃を思い出してみてほしい。テレビで見た怖いドラマや映画が、本当に存在するような気がして、夜中にトイレに行けなくなってしまったというようなことはあったはずだ。お化けや妖精、あるいはサンタクロースが実在すると信じていた時期もあっただろう。
バーチャルとリアルが混在していたのだ。その見方は、第三者的な解釈で、当事者の子どもには、すべてがリアルだ。バーチャルとリアルの区別はないということだ。
私たちがリアルだと思っていることは、実のところ脳が描き出したバーチャルでもある。赤色を赤と認識するのは、脳がそのように意味づけているからだし、「今」という瞬間を今と感じるのも、脳がそう判断しているからだ。しかし、実際には30分の1秒の過去を「今」と認識する。
言い換えれば、脳が認識する世界は、そもそもがバーチャルである。
どこまでがリアルでどこからがバーチャルかという線引きは、曖昧だということ。
個人である「私」について、考えてみる。
本人が「私」であると思っている姿(容姿や性格など)と、他人から見た私の姿は違っている。他人でも、家族、会社の同僚、たまにいく飲み屋の店員から見た「私」の姿も違っている。
見る人の視点によって、違った「私」が複数存在している。それがある人物に対する印象の違いになり、ある人は優しい人だといい、ある人は恐い人だという。
リアルな「私」とは、誰が見た場合のことなのか?
自分自身ですら、鏡に映る自分しか見ることができず、カメラで撮られた自分を見たときに、自分が思っている「私」とは違和感がある。
どの視点から見た場合にも、リアルが含まれているが、バーチャルも同時に含まれている。それは並列して存在しているのであって、区別されているわけではない。
同じものを見ていても、人によって認識が違うというわかりやすい例があった。
以下のページを参照。
ProcreoFlashDesign Laboratory 回る人影 -錯視-
▲見る人によって、回る方向が変わる。右脳を中心に使う人(右脳派)は右回り(時計回り)に、左脳派の人には左回り(反時計回り)に見えるという。
また、時間を空けて見直すと逆に回っているようにも見える。
北岡明佳の錯視のページ
▲静止した画像だが、部分的に回って見えるのは、脳が作り出す錯覚のため。
どちらの例にもいえることは、正解は「回っていない」である。
なぜなら、回っている人物は、じつは連続した静止画である。動いているように見えるのは、脳が勝手に隙間を埋めているからだ。これはテレビや映画の原理でもある。静止画と静止画の間を、埋める処理を脳がしなければ、動いては見えない。脳はリアルな情報の中に、巧妙にバーチャルを重ねているわけだ。意識しないと、その脳のトリックには気がつかない。リアルだと思っている世界にも、多くのバーチャルが織り込まれている。
と、そんなことを考えているとき、まったく別の記事で、関連するものがあった。
WIRED VISION / 濱野智史の「情報環境研究ノート」 / 岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』から、情報社会について考える(3)
非常におおざっぱな言い方をすれば、これまでIT技術(メディア)は、専ら「空間を超えてコミュニケーションを可能にする」という点にその特徴があるとされてきました。しかし、筆者の考えでは、昨今の情報環境(アーキテクチャ)は、むしろ「時間性の操作」という段階へと足を踏み入れています。その一例として、筆者はこれまで、Twitter(選択的同期)やニコニコ動画(擬似同期)やセカンドライフ(真性同期)といったソーシャルウェアの分析を通じて、アーキテクチャによる「時間感覚の《錯覚》の生成」という側面に着眼を置いてきました。それらのアーキテクチャは、「繋がりの社会性」をより一層強化するために、効率的に「現在(いま・ここ性)」を確保する――人々の間の《ズレ=非同期性》を埋め合わせる――イノベーションであると整理できるわけです。
この記事は、テーマは違うが、共通した問題を別の方向からアプローチしているように思う。
人と情報環境との関わり方を、「空間軸」と「時間軸」から比較しているのだが、それはつまりリアルとバーチャルの関係に置き換えられるように思う。
「空間を超えてコミュニケーションを可能にする」という部分を、「リアルな空間を超えてバーチャルなコミュニケーションを可能にする」と読み替えることができる。
著者のいう「時間感覚の《錯覚》の生成」というのも、「リアルとバーチャルによる《錯覚》の生成」と解釈してもいいのではないだろうか?
空間と時間は単独で存在することはできず、相互に影響し合う。
記事中で例として取り上げられていたダイエット法は、個人が自分が望むべき姿へと仮想化していき、バーチャルからリアルへとシフトさせている。
そのことが「ゲーム感覚」でできるというのが目新しいわけだが、これはロールプレイングだろう。リアルな自分を認識すると同時に、バーチャルの自分をイメージして演じていくことで、リアルがバーチャルに近づいていく。俳優が役になりきっていく過程にも似ていて、役の中で恋人同士だったのが現実にも恋人になってしまうのと同じだ。
リアルとバーチャルの狭間は、混沌と重なり合っている。
まるでシュレディンガーの猫のように。
(つづく……と思う)