五輪エンブレム問題の、言葉の齟齬

いささか食傷気味かもしれない「五輪エンブレム問題」
私もデザイン業界人の端くれとして、いろいろ書いてきたが、業界(関係)ヒエラルキーで上の方にいる方達の検証記事がいくつか出てきたので、それについて疑問や異論などを記しておこう。

よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?(深津貴之) – 個人 – Yahoo!ニュース

大きなトラブルとなった五輪のロゴ類似問題。素人目にはそっくりになロゴに対し、審査員をはじめ多くのデザイナー達が「まったく違う」と反論していたのが印象的でした。しかし、不透明かつ説明不足の審査委員会もあいまって、残念ながらこれらの発言は身内を守るものと解釈されてしまいました。

(中略)

全てのデザイナーを代弁したものではありませんが、タイポグラフィ系のデザイナーの話を聞く限り、デザイナーの間ではおおまか上記のような思索がベースとなり、「似ていない」と判断しているようです。

(中略)

なぜなら大衆がジャッジできるのは、デザインにおける直感的な良し悪しだけだからです。

組織委員会や審査委員会の人たちが、発した言葉として……

「似ていない」

……というのが、そもそも一般人の解釈する言葉の意味と、デザイン業界の意図する意味に、大きな齟齬があった。
つまり、表現する言葉として「似ていない」と言ってはいけなかったのだ。

五輪エンブレムの原案で気になること」で取り上げた、原案が修正されることになった別の似ていたロゴというのが、「TIME FORCE」であったなら、深津氏が展開したデザイン論理を適用すれば、原案すらもまったく「似ていない」と主張できるものだったはずだ。ただし、似ていたロゴを公表していないので、実際にはどれのことを指しているのか確定されていないが。
いずれにしても、似ているものがあったからと修正し、最終案に至っている。

もし、ベルギーの劇場ロゴが商標登録されていたならば、調査段階で「似ているもの」としてピックアップされていたはずであり、最終案はあの形にはならなかった可能性が高い。不運というか偶然というか、商標登録されていなかったために、調査の網にかからなかった。
調査は完璧として発表したところ、ベルギーの劇場ロゴの作者からクレームがついた。それに対して、正当性を主張するために「似ていない」論争を展開することになった。
この展開が、一般人には違和感となった。

深津氏は「大衆がジャッジできるのは、デザインにおける直感的な良し悪しだけ」と指摘しているが、その「直感」を無視すべきではなかった。専門家や佐野氏本人による「似ていない」論理をかくかくしかじかと講釈を並べたことは、上から目線の論調にも受け取れ、それが大衆を敵に回すことになったと思う。平たくいえば、「素人は黙ってろ」的な紋切り型にもなってしまった。

直感」は大事なんだ。

本来、デザイナーにも「直感」はあるはずで、ベルギーの劇場ロゴと並べたとき、「似ている」ことは感じていないはずがない。しかし、シンプルなロゴは、似てしまう可能性があることを知っているデザイナーは、「違い」があることも認識する。その違いを説明するために、「似ていない」理由を論理づける。深津氏が解説したように、その論理は筋が通っているものではあるが、回りくどく、こじつけ感があるのも否めない。ロゴのシンプルさに対して、「似ていない」ことの証明は、難解な方程式を解くように長々と複雑だ。そのような解説をともなわないと成立しないようなデザインでは、デザイン本来の役割を果たしていない。

直感的にも「似ていない」デザインである方が、万人に受け入れられたはずなのだ。
日本の一流とされるデザイナーたちしか応募できなかったエンブレムで、直感的にも、デザイン理論的にも、著作権や商標権等の法的にも、文句の出ないデザインを生み出せなかったことが情けない。

もう1本、別の検証記事。

それでもあの五輪エンブレムは”パクリ”ではない! ~そもそもデザインとは何か?  | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

しかし、エンブレムの原案ならびに最終案は果たして本当に盗用だったのだろうか? 今回の騒動は、ベルギーのデザイナーによるネット上の告発が発端となり、話題は「似ている=パクリ」の検証に終始した印象がある。

(中略)

佐野氏はチヒョルト展に足を運んでいたそうだ。そのマークに関して「記憶にない」という彼の証言が、本当かどうかは私にはわからない。しかし、盗用というのはふつう「バレない」ようにするのが基本だろう。デザイナーとしてのキャリアが20年以上ともなる佐野氏が、ここ一番のコンペでそこまで杜撰な盗用をするだろうか。

クリエイティブに対しては超シビアな第一線のデザイナーたちが足を運ぶ、「ギンザ・グラフィック・ギャラリー」の展示のメインアイコンから意図的に(しかもグラフィックデザイナーならだれもが知っているような大巨匠のビジュアルからモチーフを取って)、あそこまでわかりやすく似せるなどということは、ちょっと私には想像しにくい。模倣するのなら「円の位置を反対側に変えよう」くらいのことは試みるだろう。

河尻亨一氏は、少し勘違いしているように思うが、佐野氏デザインのエンブレムが取り下げられたのは、エンブレム自体のパクリが問題になったからではない。パクリを否定する論考は、河尻氏と深津氏で、ほぼ同様のベクトルになっている。それは理論的には間違ってはいない。

しかし、取り下げに至ったのは、佐野氏とスタッフたちによる過去の仕事で、言い逃れのできない盗用があったことで、デザイナーとしての信頼性が失われたからだ。それはデザイン理論以前の問題だ。応募資格となる受賞歴のひとつとなった、多摩美のポスター「MADE BY HANDS.」にも盗用疑惑があることから、応募資格そのものにまで疑問符がついている。

盗用というのはふつう「バレない」ようにするのが基本だろう」というが、過去の疑惑例を見る限り、そこまで用意周到に盗用した節がない。ネット民に見つけられてしまうくらい、稚拙な盗用だったといえる。その心理には、「パクリ」が悪いことという自覚はなかったのだと思う。AとBを組み合わせて、左右反転すれば、もう別物だ……と、コラージュした感覚だろう。たとえば、アンディ・ウォーホルが、マリリン・モンローの写真をベタベタと貼り合わせたり、既製品のスープの缶詰を描いたり、厳密にいえば盗用だが、ポップアートとしてもてはやされた。その後、アンディ・ウォーホルの作風は、多数の模倣者を生み、ひとつのジャンルにすらなった。

パクリとコラージュ、あるいはパロディが氾濫している昨今では、他者の写真や作品に対するリスペクトが希薄になっている風潮はある。「多摩美はパクリでも優秀作品に選ばれる?」の例もあるように、一部の学生の中にはパクることに罪悪感のないまま学校を卒業してしまう人もいる。おそらく、学校では「パクリはだめ」と、いちいち教えたりはしないのだろう。それが佐野氏とスタッフたちのパクリに結びついていると思われる。

佐野氏デザインのエンブレムが、パクリでないことには同意する。ベルギーの劇場ロゴなんて、エンブレム発表前にネット上から探すことは困難だったろうし、作者本人が名乗り出なければ、存在すら知られなかっただろう。

問題は、エンブレムがパクリかどうかではなく、佐野氏の過去作品に由来するデザイナーとしての信頼性だ。次々と明るみに出たパクリ疑惑に対して、盗用をトレースといったり、部下のせいにしたり、プレゼン用とはいえ他者の写真を勝手に使ったり、プロのデザイナーとして基本的なことすらおろそかにしていた。その後に浮上した多摩美のポスターでは、切り絵で作ったとか、持ち物を撮影したなどと、苦しい言い訳をしている。そこに「嘘」が見え隠れするから、信頼性が失われ、エンブレムについて、いくら正当な主張をしても、佐野氏ブランドは説得力を持てなくなった。

また、河尻氏は以下のように書いているが……

まずデザインは、「企業や社会からの課題」に対して表現で答えを出すところに価値がある。そこがファインアート(芸術)と本質的に異なる。

デザイナーもアート的な表現を志向する場合もあるし、その逆もあるため厳密な線引きは実は難しいが、アートはデザインとは異なり「自分の中にある問い」から表現が出発する。

デザインの場合「人様の発注」がすべてのスタートだ。そして、相手のOKが出たところで作ったものが社会に出る。アーティストは自分で自分にOKを出す。種類は違うが、どちらもかなりハードな作業ではある。

う~む、そういうアートとデザインの違いを述べるのもちょっと違うんだよね。有名な「モナ・リザ」をはじめとして、数々の肖像画や宗教画も依頼主の意向によって描かれたものが多い。商業目的としない絵画や彫刻と、商業目的のイラストレーションや工芸が区別されていた時期もあるが、20世紀後半以降は境界線が曖昧になっている。近年では「アート」の意味は広義になり、油絵や日本画、イラストやマンガも「アート」の範疇に入る。

イラストに関していえば、書籍のカバーであったり、パッケージのビジュアルであったりと、クライアントの発注により満たすべき要件がある。描き手の個性が、クライアントの求める要件のひとつでもあり、個性を発揮しつつ求められる絵を描くことになる。

私は書籍のカバーイラストを描いたこともあるが、打ち合わせの段階で、どういうイメージを描いて欲しいかを担当編集者から説明され、それに基づいてラフ画を数点描き、イメージのすりあわせをしていく。全部おまかせということは少なく、制作途中に修正をしていくのが普通だ。その過程は、デザインをする場合と、ほぼ同じ。完成するのが絵なのかデザインなのかの違い。

広義のアートも、現代では商業的なものになっているので、アートとデザインの違いを論ずるのは、やや的外れな気がする。

さらに、河尻氏は……

しかし、こういった非難の声があまりにも大きくなり、デザインやクリエイティブの業界が表現へのチャレンジに関していま以上に萎縮してしまえば、その影響はやがて超巨大なブーメランとなって戻り、我々の社会にぶっすりと突き刺さる可能性も否定はできない。

(中略)

「何にも似ていない」という条件は、デザイナーたちにとってかなりのプレッシャーとなりうる。

その心配はない。弁解できないようなパクリや盗用をしなければいいだけの話。過去の仕事の信頼性が高ければ、偶然少し似てしまったくらいで過剰にバッシングされることはないだろう。
「何にも似ていない」という条件……は、プレッシャーになるどころか、むしろ制作意欲を掻き立てられる条件だと思うね。複雑にすればいいわけではなくて、シンプルかつ類似性の少ないデザインを作ることは、難易度が高いゆえに創作意欲をくすぐられるデザイナーも少なくないはずだ。

佐野氏デザインのエンブレムの利点として取り上げられた、「展開力」というのも一般的にはピンと来なくて説得力が乏しかった。いわゆる「業界用語」のひとつだが、わかりにくい用語を使ったことも、プレゼンテーションとしてはマイナスだった。

そもそも「展開力」などというものが、五輪エンブレムにどれほど必要だったのかも疑問だ。それは過去の歴代エンブレムを見てみればわかる。

▼歴代五輪エンブレム(1992年~2018年)

歴代五輪エンブレム

近年のものだけを並べたが、こうして一覧してみると、けっこういろいろというか、セオリーもくそもないって感じ(^_^)。こんなエンブレムだっけ?……と、記憶に残っていないものもある。

エンブレムはエンブレムとして機能すればいいわけで、アルファベットで展開する必要はないし、ロゴとして存在していればいいだけだ。あと、金銀銅のメダルに刻印されるのが、一番の役割。どういうデザインのロゴであっても、空港に貼り出すことはできるし、ポスターにすることだってできる。展開力などというものは、あまり大きな意味は持たない。

オリンピックに出場する選手にとっては、ロゴがどんなデザインかは関係ない。選手が取り組んでいるのは、いい記録を出すこと、メダルを取ること、そしてメダルの色だろう。観客としての私たちが望んでいるのは、選手達の活躍であり、感動であり、ドラマだろう。東京五輪後は、エンブレムのデザインがどんなだったかなんて、忘れてしまう。

シンボルとしてのロゴは、脇役にすぎない。脇役ではあるが、ダーティーなイメージがつきまとうのは好ましくない。招致用のエンブレムは、当時女子美術大学生だった作者の作品が抜擢された。本番の五輪エンブレムだからと、権威と経歴のあるデザイナーでなければいけない理由はない。応募資格の敷居を高くして、一流を集めたはずなのに、お粗末な結果になってしまった。ならば、一流の存在意義はなんなのか?……ということにもなる。

仕上げはプロがやればいいのだし、原案となるデザインは、広く一般から公募する方が、オリンピックの趣旨にも沿っていると思う。

JOC – オリンピズム | オリンピック憲章

オリンピズムの根本原則

  1. オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。

良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重」というのは、今回のエンブレム騒動を引き起こしたデザイン業界には、耳の痛い教訓となった。

諌山 裕

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