『バケモノの子』を11日夜、観てきた。
細田守監督の新作、話題作となっていて、米国、英国、カナダ、ドイツなど36カ国・地域での上映も決まっているという。
率直な感想としては……
期待を裏切らない仕上がり。
しかし、期待を大きく上回るほどでもなかった。
……というところ。
面白いと思うよ。それは間違いない。
細田監督の作品を初めて見る人には、評判通りの作品になっているのではないかな。
ただ、これまで観てきた作品……
『時をかける少女』
『サマーウォーズ』 →【レビュー】『サマーウォーズ』Blu-ray
『おおかみこどもの雨と雪』 →【レビュー】「おおかみこどもの雨と雪」
……の延長線として、『バケモノの子』を観ると、少々物足りなさがあったことは否めない。
それは期待の裏返しでもある。
前3作は、それぞれに作品のカラーが異なり、期待を上回る感動があったものだ。
次は、どんな作品を見せてくれるのか?
その期待値は、今まで以上に高まっていた。
そういう期待は、ファンとしての高望み、過剰な期待なのかもしれないが、新たな感動に飢えていたファンの心理でもある。
個人的には、その欲求は八分目くらいしか満たされなかった。
以下、ネタバレあり。
端的にいえば、父と子の物語。
実の父と、師匠としての父親代わりとなる熊徹との関係性が、物語の柱だ。
別の言い方をすれば、男としての父と、男としての息子の葛藤と成長の過程でもある。
これが親と子のどちらかが女性であったなら、まったく違う過程になっただろう。
「男同士の関係性」であることが、この物語のポイントだと思う。
父と息子の関係性は、それぞれの親子や家庭で千差万別だ。ひとつとして同じ親子はいない。ステレオタイプ的には、父親と息子は対立する関係にある。父は息子を鏡に映る自分のように感じ、息子は父を越えるべき壁のように感じる。
『バケモノの子』の親子関係は、典型的なステレオタイプの親子関係を描いているともいえる。そこに共感できる人と、まったく共感できない人とでは、受け止め方はまったく異なる。ある意味、監督のイメージする理想的な父親像と息子像なのだろう。
どこか昭和の臭いがする親子感にもなっている。
女性がこの物語を見れば、また違った見方をするのだと思う。父と息子の関係性は、母と娘の関係性とは違うものだし、実感のない父と息子の行動や発言はフィクションでしかない。
男である私から見れば、自分と父親との関係性がオーバーラップするから、完全なフィクションにはなりえず、どこか自分と重ねてしまう。そして、うまく重ならない部分には違和感を感じてしまう。
物語の設定としては、リアルな渋谷から異世界である渋天街へとシフトするあたりは、宮崎監督の「千と千尋の神隠し」を連想させる。
バケモノたちが闊歩する異世界ではあるが、人間的な社会ルールがほぼそのまま通用する世界になっているため、あまり異世界感は感じない。言葉は通じるし、食べものもそれほど変わらない。バケモノたちの世界であるならば、言語は違うだろうし、社会の仕組みやルールも違うはずだし、街の作りや建物のデザインだって違うはずだ。しかし、そういう異質さはほとんどない。そのため、異世界であることを忘れてしまう。熊徹が熊であることを意識しなくなってしまったほどだ。
途中から、蓮は渋天街と渋谷を自由に行き来できるようになり、少女の楓と交流するようになるが、楓の役割はいまいちはっきりしなかった。リアルな渋谷に戻るための接点としての少女ともいえるが、恋愛関係に発展するわけでもなく、彼女の立ち位置は鮮明ではなかった。まぁ、恋愛の芽生えの初期であることは想像できるが。
キャラクター要素として、少女は華として登場人物の関係性を表現する上で、必要ではあった。バケモノばかりでは、色気がないからだ(笑)。蓮の揺れ動く気持ちを軌道修正するきっかけとして、楓は一定の役割を果たしてはいた。
物語的には、夢を大きく羽ばたかせるわけでもなく、世界を救うわけでもなく、悲しい運命を背負うわけでもない。リアルな世界と異世界を行き来しつつも、外に向かうのではなく、内側に、心の内面に向きあう物語だ。その内面が、バケモノたちのいる世界ともいえる。
クライマックスでは、渋谷を舞台に戦うシーンが出てくるが、それは街に点在する監視カメラには映らない現象であり、幻の戦いだ。
いわば、心の中の戦い。
蓮が戦っているのは、形の上では一郎彦だが、じつは自分自身なのではと思う。
外敵ではなく内面の自分との戦い。
自問自答。
自己否定。
自己憐憫。
父親は自分の未来の姿と重なる。
乗り越えた先に、父の姿を見る。
とまぁ、ぐだぐだ書いたが、観る価値はあったよ(笑)。
思ったのは、細田監督は少女あるいは女性を描いた方が、生き生きしている気がする。「バケモノの子」の登場人物の中では、楓が一番キラキラしていたからね。少年を描くと、男として少々厳しい視点になってしまうのではないだろうか?