コンピュータで小説を書く研究をしているという教授の解説。
俳句や短歌のような短文であれば、言葉をランダムに組み合わせるだけでも、それっぽいものはできるし、ボットとしてツイートをしているものもある。
では、小説ではどうなのか?……という話。
コンピュータはゴーストライターになれるか?(佐藤 理史) | ブルーバックス | 講談社(1/4)
一般の方々からは、「小説を書くAIを作っているんですね?」と言われることが多い。個人的には、AI(artificial intelligence, 人工知能)は作るものではなく、研究分野だと思っているので、このような問いかけには「ハイ、そうです」とは答えたくない。
(中略)
短編小説の「ルール」と「勝利条件」
長さ以外にも次のような困難さがある。
(1) 文章の定型性が低く、多様性が高いため、文章のテンプレートが作りにくい
(2) 毎年、異なる作品を作らなければならないため、文章のテンプレートの使い回しが効かない
(3) どんな条件を満たせば、「短編小説」と呼べるのか、よくわからない
(4) どうすれば、読み手の心に響く文章となるのか、よくわからない
(5) どんな小説がよい小説なのか、よくわからない後ろの(3)から(5)は、比喩的に言えば、「ゲームのルールと勝利条件がわからない」である。そんなゲームに勝つのは至難の技である。
(中略)
作家の条件
人間の場合、どのような条件を満たせば、作家として認められるのだろうか。思いつくのは、次のような条件である
(1) 作品が売れ、出版される
(2) 作品の執筆依頼が来る
(3) 作品が外国語に翻訳される
(4) 作品が賞を取る我々の研究室は、(4)以外はすでにクリアーしている。
着眼点はなかなか面白い。
ただ、ちょっと違うかな?……と思うところもある。
「文章の定型性が低く、多様性が高い」とあるのだが、人が小説を書く場合には、その人独自の流儀というかスタイルがあり、それがいわばテンプレートになっている。だから、村上春樹の小説はそれとわかる文体だし、多くの作家はそれぞれの個性をともなっている。
言い方を変えれば、テンプレートの数と許容値が大きいということでもある。
長い文章を書いていても、自分のスタイルから逸脱することはない。というか、スタイルを保持しないと、一貫性のないメチャクチャな文章になってしまうからだ。
そういう意味では、作家には作家独自のテンプレートが存在している。それは柔軟性のあるテンプレートで、形を変えつつも作家のスタイルを崩さない特性がある……と考えればよい。
「毎年、異なる作品を作らなければならない」というのは、テンプレートがどうとかの問題ではなく、小説のベースとなるアイデアの問題だろう。
たとえば、鶏が金の卵を産む話を書いたとする。翌年、今度はヘビが金の卵を産む話を書いても、鶏がヘビに変わっただけで、新しい作品とはいえない。アイデアに新鮮味がないからだ。
(3) どんな条件を満たせば、「短編小説」と呼べるのか、よくわからない
(4) どうすれば、読み手の心に響く文章となるのか、よくわからない
(5) どんな小説がよい小説なのか、よくわからない
……と、この3つは、人間の作家でも悩ましい問題だろう。
短編小説の定義は、指定された原稿枚数の中に収まる小説であり、文章の量的なこと以外で指定されることはほとんどない。支離滅裂な文章でも、規定枚数の文章量があれば、短編小説として応募できる。そこに完成度は求められていない。ただ、審査では落とされるだろうけど。
「読み手の心に響く文章」……これは、物書きの命題でもある。
その答がわかるのなら、ぜひ聞きたい(^_^)。
「どんな小説がよい小説なのか」……これは、面白いとか感動したとか、そういう感情的な反応のある作品が、よい小説なのだろう。つまり、感情とはなにか、文章が面白いとはなにか、感動するとはなにか、という人間の心の問題でもある。
物語には「起承転結」が必要……といわれる。
作家は、起承転結を感覚的にイメージしている。おそらく、直感的に。
ここでこうきたから、ここはこうしよう……というように。物語の設計図が、瞬時にひらめいてイメージが湧く。
コンピュータにひらめきは期待できないから、学習することで起承転結のパターンを作り出せるかどうかだろうね。
じつは、ある程度のパターンはある。意図的かどうかはともかく、ヒット作や人気作となる作品には、多くの人々が反応するパターンが存在する。「仕掛け」と呼んでもいいが、心理的な共鳴を起こす要素がある。そういう仕掛けをコンピュータが作る文章にうまく組み込めれば、感動させることは可能かもしれない。
(1) 作品が売れ、出版される
(2) 作品の執筆依頼が来る
(3) 作品が外国語に翻訳される
(4) 作品が賞を取る
……と、4つの条件を挙げているが、これは設定が違うと思う。
作家の条件とは以下である。
(1)新人賞を取る
作家の登竜門として、新人賞を取るのが定番なので、まず新人賞を取ってデビューすることが第一歩。新人賞を経ずに作家になる人もいるが、最近ではレアケース。
(2)作品が出版される
新人賞の最優秀賞を取れば、自動的に受賞作の出版がされる。
しかし、賞にはいくつかのレベルがあり、佳作の場合もある。トップではない場合、賞はもらえても出版には至らないことも多く、作家デビューには結びつかない。
(3)原稿料および印税で、専業作家として食えるようになる
これが一番重要。
小説の作家とは、プロとして食べていける人のことをいう。商業出版では、作家業で食えなければ作家を続けられない。
趣味の同人誌で書くのも「作家」とは呼べるが、それを含めるとするなら、佐藤理史教授のコンピュータ小説は「作家」と呼んで差し支えない。しかし、目指しているのはそこじゃないだろう?
専業作家として食えるということは、継続的に執筆の依頼が来ることであり、新作を次々と発表できるということでもある。
また、外国語に翻訳されるかどうかは、作家の条件には当てはまらない。国内の作家の大部分は、国内のみの出版であり、外国語に翻訳されるのはごく一部の人気作家のみ。
……と、根本的な問題として、「小説とはなにか?」という原点に戻る。
小説は、基本的にはフィクションであり、架空の物語。
リアルに基づく小説もあるが、作家の想像力で書いている部分も多々あるから、フィクションであることに変わりはない。
人は、なぜ物語を必要とするか?
小説がなかった時代でも、神話や語り部によって物語は紡がれていた。人々は、目の前の現実ではない、見知らぬ世界を想像することで、物語に触れていた。
私なりの解釈だが、大きな脳を発達させた人間は、常に脳を働かせておかないといけなくなったのではないか。
脳を働かせるのに適しているのが「想像すること」だ。
だから、常にあることないことの想像が脳の中を巡る。それらは無秩序であり脈絡もない思考だ。
だが、小説や映画などの物語は、一定の秩序と起承転結があり、想像力をひとつの方向に束ねることができる。言い換えると、混乱する脳の思考を整理できるのだ。
よい小説、面白い小説とは、その物語に集中し没頭できて、脳の活動が活性化し、かつ安定させる効果があると思う。
コンピュータが書く小説が、面白くなるかどうかは、人間の想像力をどのように刺激するかかもしれないね。
ただし、作家が小説を書くのは、あるテーマやアイデアについて「書きたい」「表現したい」「書き残したい」という動機があってこそ。
そういう動機がないコンピュータの書いたものが、小説といえるかどうかは、また別の問題。