「子猫殺し」について、ジャーナリストの「江川紹子」氏のコメントが出ていた。
全文はリンク先のページを見ていただきたいが、江川氏が締めくくりに書いていた一文に、涙が浮かんだ。
Egawa Shoko Journal: 「子猫殺し」の不快
チビは今入院中。お尻の分泌腺が詰まって周囲の組織まで化膿してしまったので、その治療のためだ。実はこの状態になった時、私はドイツにいて、知らせを聞いて動転した。すぐに戻ろうかとも思ったが、代わりに世話をしてくれていたA嬢がかかりつけの病院に連れていってくれ、完治に少々時間はかかるが、命に別状があるわけではないと聞いて、ホッとした。
今回は大丈夫でも、このふたりとも、いつかはお別れの時がくる。一秒でも長生きして欲しいけれど、そんな私のわがままのために、彼らを苦しい目に合わせることだけはすまいと、今から自分に言い聞かせている。とはいっても、その時になったらどうなるか、自分には自信はない。せめて私にできるのは、それまでの間、ふたりが少しでも快適な日々を送り、安らかに老いていくことを助けることくらいだ。それが、私がどんな時期にも一緒にいて、大いなる慰めを与えてくれた二人に対する恩返しではないかな、と感じている。
Bチャンのことを思い出してしまった。
Bチャンと共に過ごした18年間……。
いつか別れる日がくることはわかっていても、その日が1日でも先であって欲しいと願っていた。
しかし、死は無情に訪れる。
坂東氏は「死」は「生」と補色のような関係と書いていた。死を実感する(殺す)ことで生を実感できると。
生と死が、対局にあるという意味ではそのとおりだが、「生きる」というのは「個」の問題ではない。人であれペットであれ、周りに共に生きている者がいる。
「生」とは、共に生きる者たちと、時間を共有することなんだ。
ほんの束の間の時間かもしれないが、貴重な時間なのだ。
誰にでも(人間でも動物でも)、死はいずれ訪れる。
生きて、共に巡り会う時間は、わずかなものだ。
そのわずかな時間を、大切にしたい。
それが生きるということではないだろうか?
現在、11頭になったわが家の猫たちだが、一番年上は15歳だ。
もう猫にしては高齢だ。
その子とも、いずれ覚悟の日が訪れる。
それを考えると悲しい。
だから、精一杯“今”という時間を共に生きるんだ。
簡単に殺してしまうような「生」は、「生」を実感しているとはいえないだろう。
その子猫が、老衰で死ぬまでつきあってこそ、はじめて「生」を実感できるはずだ。
15年〜20年かけて、猫たちの「生」と向き合うのには、根気と勇気が必要だと思う。
共に生き、共に時間を過ごし、そして最後を看取る。
うちの猫たちの、すべてを見送るまで、それは続く。
それが「生きる」ということだ。
私たちは、独りで生きているわけではないのだから。