新聞を取らなくなって久しい。
15年ほど前(現在年からは31年)から、新聞は必要なくなった。
取らなくなった理由は、デジタル情報としてニュースを読むようになったからだ。当時は、まだインターネットが一般に広く普及していなかった時代だ。
ニュースはパソコン通信のニフティから、興味のあるキーワードを複数設定してフィルタをかけ、ニフティ内のメール配信という形で受け取っていた。
これだと、見逃すことが少なくなり、必要な情報だけ取捨選択できた。
それができるようになって、紙の新聞の必然性はまったくなくなった。
現在では、インターネット上で様々なニュースを「無料」で読むことができる。
実際には接続料などがかかっているわけだが、新聞を読むためだけにかかる購読料に比べれば、無視できるような金額だ。
それに関連した記事。
若者の「新聞離れ」は「ニュース離れ」ではない――米調査 – ITmedia News
「新聞を読まない人が、必ずしもニュースを利用しないわけではない」、「単にデジタルフォーマットを好んでいるだけ」と指摘している。
パソコン通信時代から、ニュースはデジタル派の私にとって、最大のメリットはというと……。
(1)記事の保存が容易で、検索も可能なこと。
(2)複数の情報源との比較ができる。
(3)記事の体裁を自由にできるので読みやすい。
この3つだ。
もはや、紙の新聞の価値がどこにあるのか、疑問に感じる。
先日、理髪店に行って、待ち時間の間に置いてある新聞を眺めていた。
読んでいたのではなく、見出しを眺めていたのだ。
それで気がついたことがあった。
紙面の大部分が広告だということだ。
両面を開いて、片側がすべて広告というのが基本的な構成だ。場合によっては、見開き全部が広告のページもある。
つまり、新聞はニュースばかりを載せているのではなく、広告のチラシ的な役割の方が大きくなっているということ。読むところ、読みたいところがほとんどないのだ。ニュースだけで構成すれば、3分の1のページ数で足りてしまうだろう。
新聞は有料のメディアだ。放送でいえば、ケーブルテレビや衛星放送の有料番組と同じだろう。お金を払っているのに、中身の半分以上が広告では、広告を見るために払っているようなもの。
TVで有料の1時間番組の30分がCMだったら、普通、怒るだろう(^_^)
それを平気でやっているのが、現在の新聞ではないだろうか。
ニュースの大部分はネット上で読むことができる現在。
ネットでは無料でニュースを流し、紙の新聞では料金を取るというビジネスモデルは、すでに破綻している。
これは新聞に限ったことではなく、小説、音楽、映画にもいえることで、旧来のコンテンツ販売の方法が崩れ始めている。
「本離れ」も言われ出して久しいが、本は読まなくなっても携帯小説は読んでいるという時代だ。調べものがあっても、百科事典や辞書を引くよりも、ネットで検索した方が簡単で速い。
ニュースや新聞で起こっていることは、「本」にも共通する。
物品としてのコンテンツではなく、デジタルデータとしてのコンテンツから、いかにして収益を上げるかというのが、これからのメディアや出版の課題だ。
それらのことが、著作権のあり方にも関わってくる。
そのへんの話は、また別の機会に。