「猫のミーちゃん」

9頭目の子猫が来た。

詳しくは「猫のミーちゃんとナナちゃん成長日記」を見ていただきたい。

子猫が加わったことで、我が家はにぎやかになった(笑)。私たち夫婦も猫たちも、子猫を中心に動くようになるからだ。

その子猫の名前が、なかなか決まらなかった。妻は私にまかせるといっておきながら、私の提案を却下するのだ(笑)。おいおい。

いくつかの候補があったのだが、妻との妥協点で『ミー』となった。英語表記では『Me』だろうな。

ミーちゃんはまだ1〜2ヶ月程度の子猫なので、体重は800gくらいである。片手でひょいと持ちあげられる大きさだ。1年後にはナナちゃん並に大きくなっているだろうが、いまはちっちゃな子猫だ。

なんとも可愛らしい(笑)。

私たち夫婦には子供はいないので、人間の子供の可愛らしさは、実感としてはわからない。弟夫婦の子供や、親戚の子供に接してきたことはあったが、子猫に感じる「可愛らしさ」というのは感じたことがない。言葉としては同じ「可愛い」でも、その感触というか実感はまったく別物である。

掲示板の方で、友人のSと動物を巡る議論をしていたが、おそらくSのいうところの「可愛い」と私のいう「可愛い」の言葉の捉え方はまったく違っている。そのために議論が噛みあっていないのだろう。

人間の子供の場合は、愛情を注げば愛情を返してくれる。だが、猫の場合は猫からの愛情のキャッチボールはない。もちろん、猫がなついてくれるという擬似的なものはあるが、それは人間の勝手な思いこみにしか過ぎない。猫がなにを思っているかなど、人間にわかるはずもないからだ。飼い主が注ぐ愛情は、無償の愛なんだ。

人間の子供の場合だって無償の愛だ……という反論が返ってきそうだが、代償も求める愛情だといっているわけではない。親が子に注ぐ愛情は無償の愛であっても、子供はそれを理解して言葉や態度で親にも愛情を返そうとする。まぁ、普通はね。それを親孝行といったりもする。

人間と猫の場合は、一方通行である。人間は勝手に猫に愛情を注ぎ、猫は勝手に甘えているだけである。意志の疎通はそこにはない。

それでもというか、それだからこそ「可愛い」のだ。

猫が迷子になって、よその家に飼われたとしても、猫は前の飼い主のことをすぐに忘れる。猫にとっての人間は、愛情うんぬんとは無関係だからだ。新しい飼い主が可愛がってくれて、食べものと身の安全と遊び相手を得られれば、それで満足なのだ。

現在保護中の猫のラピちゃんも、すっかりうちの猫になってしまった。私にベタベタと甘えるが、もし仮に元の飼い主が現れて、元の家に戻れば、私のことなど早々に忘れてしまうだろう。猫には人間が思うような愛情の思考はないからだ。

猫の頭の中には、論理的な過去も未来もほとんど存在しない。あるのは「現在」だけである。記憶はもちろんあるが、「昔、世話になったから」などという論理的な記憶はないといっていい。

うちの猫たちは可愛い。

それはいま現在うちにいるから、うちの猫なのであって、よそに行けばよその猫になってしまう。

だから、目一杯うちの猫たちに愛情を注ぐのだ。束の間の関係なのだから。

そして、猫たちの一生は短い。一番年上のBチャンは14歳になるが、ここまで長生きする猫は少ない。

短い一生を、私たちと過ごす猫たちに、精一杯の愛情を注いであげたい。

それが一方通行の愛情であったとしてもね。

諌山 裕

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