私のブログの過去記事でも書いてきたが、現在のAI(人工知能)は「人工知能」の呼ぶのが間違っている。性能が向上したコンピュータのリソースを膨大に使って、膨大な計算をしているにすぎない。そこにあるのは知能ではなく、適切と思われる解答を計算して出力しているだけだ。
以下は、AI関連の記事だが、この記事にはおおいに共感した。
Over the AI ――AIの向こう側に(3):笑う人工知能 ~あなたは記事に踊らされている~ (1/8) – EE Times Japan
この連載で、多くの方は、「『江端は、コンピュータが知能を持つことはありえない』と主張しようとしている」と思っているかもしれませんが、実はそういう訳ではないのです。
そもそも、”人工知能技術”などを用意するまでもなく、コンピュータには知性があり、感情があります ―― それも、人間に対して相当に意地の悪い感情です。
これは30年近く、毎日コンピュータ(メインフレーム(スパコンを含む)から、PC、組み込み用のボードコンピュータに至るまで全般)を扱ってきたこの私が、経験上、このように言わざるを得ない膨大な事実の積み重ねがあるからです。
(中略)
「もしかしたら、人工知能の記事の大半は、人工知能のことを技術的に分かっていない人が書いているんじゃなかろうか」と疑うようになってきました。
(中略)
つまり、現時点において、少なくとも第1世代や第2世代が目指した人工知能は、完全な形で動かすことができる環境になっているハズなのです。
しかし、この本の中で真剣に論じられている、人工知能に与える命令「新聞を取ってこい。しかし、雨にぬれてはいけない」を、人工知能が実行できたという話を、私はいまだに聞いたことがありません。
なかなかに面白い記事。
ちなみに、私とコンピュータの関わりは、この記事の著者より長い(^_^)。30年前というと1986年だが、MS-DOS Ver3.2が発売され、NECのPC-98シリーズ全盛期の頃だ。私も98ユーザーだった。
私が高校生のとき、コンピュータの記録媒体が紙テープの時代から関わっている……と、歳がばれるな(^_^)b
当時としては、15歳でコンピュータを学ぶなんてことは極めて珍しかった。使っていたコンピュータは、富士通のFACOMの初期モデル。マシン言語は、FORTRANやCOBOLの時代だ。
それ以来、コンピュータを趣味でも仕事でも使ってきたが、性能が上がり、処理速度が上がり、メモリとHDDの容量が桁違いに増えてはいるが、基本的なことは変わっていない。
コンピュータは命令されたことしか実行できない。
……ということだ。
それは現在のAIでも同じ。芸が細かくなって、出力の選択肢が増えているだけなんだ。
Pepperや女子高生AI「りんな」に、人間的な感情や親しみを感じているのは、人間側が擬人化していることで起こる「錯覚」である。それはくまのプーさんのぬいぐるみを、擬人化するのとそれほど変わらない。
AIが自発的にレスポンスを返しているように見えるが、じつのところルールに従って適切と思われる答を組み合わせているにすぎない。ルールにない返答は、返すことができない。
現在のコンピュータが「意識」を持つことはない。
なぜなら、意識を発生させるためのパーツが装備されていないからだ。それを「ゴースト」と呼ぶか「魂」と呼ぶか「意識」と呼ぶか、呼び方はともかく、意識のパーツが実装されていないのに、自然発生するわけがない。
人間の意識が、脳の中のソフトウエアであるなら、人工知能に意識を持たせることは、もっと簡単ではないかと思う。ソフトウエアであるということは、実体のないプログラムだからだ。
意識が脳の中でどのように発生するのかは、諸説ある。脳の中に機能として組みこまれた意識を発生させるメカニズムがあり、同時に意識を意識たらしめる記憶などのソフトウエアも兼ね備えていると思われる。
コンピュータは、記憶と計算はできるが、意識がない。
データを記憶し計算を実行できるのは、メモリがあり演算素子(CPU)があるからだ。そのためのパーツが実装されているから、コンピュータは計算し記憶できる。
意識を持たせるには、そのためのパーツが必要だ。それがどんなものなのか、まだ誰も知らないし、発明されてもいない。
真の意味での人工知能は、まだ誕生していない。
現在のAIは、膨大な計算を短時間で処理しているだけ。それでも限定的な条件下では、有効な使い道があるが、なんでもできるわけではないのだ。
心を持った鉄腕アトムが現実に誕生するためには、「心の回路」を発明しないといけない。
しかし、「心とはなにか?」という問いに対する、科学的・技術的な答は、まだ出ていない。