「自民党オープンエントリー」のファイナリストを紹介した写真について、「加工しすぎ」という指摘をしている記事なのだが、この記事を書いた人は写真についての知識が乏しいね。
<あなた誰?>写真を修正しすぎる「自民党オープンエントリー」のファイナリスト | メディアゴン(MediaGong)
しかし、そのような「オープンエントリー」の本来の意義がありつつも、一部に「えっ? これって同一人物?」と思われるような過剰(CG加工)な写真修正をしているファイナリストがいることに驚かされる。
(中略)
まず、図を見ていただきたい。この図は、現在、自民党オープンエントリーの公式サイトに掲載されている「プロフィール写真(右)」と「現実の本人の写真(左)」の比較図だ。過剰な修正写真は、もちろん「プロフィール写真(右)」の方に見られる。
写真は私の趣味と仕事でもあるのだが、こういう論評には苦笑してしまう。
ライターの矩子幸平氏は、写真の基本的なことがわかっていない。
写真は「現実」をありのままに写しているのではなく、「現実」の一面を切り取っているにすぎない。
……ということ。
私たちが認識する「現実」というのは、カメラのシャッタースピードである250分の1秒(撮影条件によって異なる)ではなく、ある程度の時間的スパンを内包した、もっと広い範囲の認識だ。
一瞬の姿を焼きつける写真は、その瞬間の出来事でしかなく、写真を見る私たちは、そこには表現されていない前後の時間を「想像」で補っている。
瞬間の事実ではあるが、すべてではない。
笑顔の写真だからといって、その人が常に笑っているわけではないし、怒っている写真だからといって、常に怒っているわけでもない。写真は250分の1秒の瞬間しか写していないのだ。
たとえば、ある人が30分の演説をしたとする。その写真を撮って、その演説の様子を伝えるとすると、45万分の1(シャッタースピードを1/250と仮定)の現実しか写していないことになる。
それは現実の極めて小さな断片でしかない。
どの瞬間を選択するかで、印象は大きく変わる。その選択には、選ぶ人の意思や感情が関与する。悪い印象操作をするのであれば、しかめっ面を選択するだろうし、良いイメージを与えようとすればにこやかな笑顔を選ぶだろう。つまり、そこに意図が介在すれば、写真は瞬間の事実を写してはいても、「現実」は写していないことになってしまう。写真は、見る人に「想像力」を働かせるからだ。
矩子氏が比較対象として動画からキャプチャした静止画は、撮影用のライティングとしては恐ろしく劣悪な条件になっている。ライティングとしては素人レベルだ。
こんな悪い条件の動画の一場面と、ちゃんとライティングされているプロフィールの写真を比較すること自体が間違っている。比較するのなら、同じ条件下で撮影された動画と写真でなければ意味がない。
特に人の顔は、光の当たり具合、陰影の付き方で、見え方はぜんぜん違ってしまう。
人の眼は、ダイナミックレンジが広く、少々暗くても細部を見分けられるが、カメラは光量が不足していると影として潰してしまう。
また、人の眼は、実際に網膜が捉えている光景では不足している部分を、前後関係から脳が想像で補うため、見えていないものまで見えているように錯覚してしまう。脳はリアルを見ているのではなく、補正された仮想のリアルを「現実」と認識している。
余談だが、写真を加工することを「CG加工」とはいわない。
CGは、Computer Graphicの略であり、一般的には現実に存在しない物体を、コンピュータ上で作り出すものを指す。写真を加工する場合は、多くの場合Photoshopを使うので、俗語としては「フォトショ加工」といったりする。
参考例として、パプリカを撮影してみた。
同じパプリカでも、写真にするとこれだけ違ってくる。
▼スマホで室内のLED灯(シーリングライト)下で撮影。
▼一眼レフカメラで、背景紙をセッティングし、ちゃんとしたライティングをした撮影。
このパプリカの写真を見て、どっちが「現実」といえるだろうか?
スマホ撮影は撮りっぱなしで加工はしていない。一眼レフ撮影は、RAWデータで撮影し、現像処理をしている。
スマホ-パプリカは、のっぺりとしていて、まるでプラスチックのようにも見える。一眼レフ-パプリカは、立体感があり、繊細な色味やツヤもあり、美味しそうに見える。発色そのものも違い、一眼レフの方が実物に近い。
カメラと撮り方の違いでこれだけの差が出る。
どちらも「現実」であり、それは条件の違う現実なのだ。
それが写真だ。
視点によって、見え方は変わる。
言い換えると、「現実はひとつではない」ともいえる。
現実が見えていないのは、矩子氏の方だ。
動画からのキャプチャに……
ランダムな写真の抽出では、アングルや表情によって写りの良し悪しに多少の差が出てしまう可能性があるため、機械的な平等性を確保するために、「動画開始から最初の5秒目」の部分をスクリーンショットで入手した。
……としているが、じつはその選択自体が恣意的になっている。
5秒目に皆が同じ表情をするわけでもなく、たまたましかめっ面をしていたら、平等性を担保することにはならない。その選択基準に、なんら平等性は成立しない。
スタジオで撮影したであろうプロフィール写真は、数十枚の中から一番良い表情を抜き出しているはずである。「動画開始から最初の5秒目」という基準を設けるのであれば、「スチール撮影の5枚目」というような条件付けでもしない限り、選択の平等性は見いだせない。
つまりは、この比較基準そのものがナンセンスであり、恣意的なのだ。
矩子氏の論法でいえば、「化粧」もダメということになる。
議員もしくは議員候補は、いかなるときもスッピンでなければいけないと。化粧をして見栄えをよくするのは虚偽であり、議員としてあるまじき行為であると。もっといえば、見栄えが良くなる服を着るのもダメだと。
つきつめると、スッピンで裸で登場しろ……ってなことになってしまう。
繰り返すが、写真は「現実そのもの」を写しているのではない。
現実の一部、断片を写しているにすぎない。
どのように写るかは、カメラの性能や光の当たり方、アングルやシャッターを切るタイミングなど、環境に左右される。また、撮影者のテクニックによっても仕上がりに違いが出る。
動画の1コマと、入念な準備をして撮影されたスタジオ写真を比べて、スタジオ撮影の「美しい写真」を「虚偽」とするのはバカバカしいほどに愚かだ。
たとえるなら、畑から掘り出したばかりで土まみれのジャガイモと、綺麗に洗われてスーパーの店頭に並んでいるジャガイモを比べて、「スーパーのジャガイモは虚偽だ」とクレームをつけるようなもの。
スタジオ撮影の写真が本人かどうかは、顔認証技術で判別可能だ。顔のパーツの位置や大きさ、顔全体の骨格などから、少々アングルが違っていても、同一人物かどうかの判定ができるほどのレベルになっている。その顔認証技術にかけてみれば、人相が変わるほど加工しているかどうかは判別できるだろう。
それをやった上で「虚偽」というのなら、まだ説得力はある。
写真の撮り方に難癖をつけるのは、アホらしいとしかいいようがない。