差別問題、ヘイト問題は、対立する双方の主張や感情が、まるで噛み合わないためにエスカレートする。
これは理屈ではなく、嫌悪のぶつかり合いなんだと思う。
在日コリアンの主張の記事。
いまそこにある差別……なぜ父は「在日コリアン」であることを家族に話さなかったのだろう 2021年の論点100 – 安田 菜津紀
時折、「在日コリアンだから、差別に声をあげるんですね」と尋ねられることがある。もちろん、私の父のルーツを知ったことによって、ヘイトや差別の問題により敏感になった面はある。
けれども在日コリアン「だから」声をあげるのではない。私が何者であっても、どんな立場にあっても、この問題に声をあげたいと思う。なぜならこれは、差別の矛先を向けられる側の問題ではなく、向ける側と、その間にいる人々の態度の問題だからだ。特にその「間」にいる、大多数の人々の行動や態度の変化が、鍵を握るのではないだろうか。
言いたいことはわかるし、気持ちも察する。
ただね、いつも疑問に感じていることがあるんだ。
日本国内で韓国人に対する侮辱発言はヘイトとして禁止され、処罰の対象になっている。それは当然だと思う。あのヘイトスピーチやヘイトの書き込みは、見聞きしているこっちまで不快になる。
しかし、しかしである。
韓国内での反日運動や反日不買運動は、ヘイトとして扱われないのはなぜなのか?
韓国内では反日無罪ともいわれるくらい、国が率先して反日を煽っている。大統領からして、日本を侮辱している。
日本のマスコミは、韓国に対するヘイトについては批判するのに、韓国内での日本に対するヘイトはあまり批判しない。
それは日本が韓国にヘイトされてもいいってことなのか?
なにか違う気がするのだが?
ヘイト(hate)は「ひどく嫌う」の意味。
韓国に向かってヘイトをする人たちは、韓国が嫌いということだ。
そして、反日運動をする韓国人は、日本が嫌いなのだ。
日本で韓国ヘイトが起こると、韓国で反日気運が高まる。
反日運動の情報が入ってくると、韓国ヘイトがエスカレートし、さらに逆流して反日も高まる……というマッチポンプだ。
嫌悪の連鎖が延々と続くことになる。
これは差別問題であると同時に、好きか嫌いかの感情問題でもある。
人間だれしも嫌いなもの、嫌いな人はいる。
嫌いなものは拒絶する。
嫌いなものを好きになれといわれても、簡単に好きになれるわけではない。
理性で差別はいけないと理解していても、嫌いなものは嫌い。そこは理屈じゃない。
韓国ヘイトも反日運動も、理屈じゃない感情の問題だから議論が噛み合わない。
「おれは韓国が嫌いだ」
「おれは日本が嫌いだ」
両者の間に合理的な妥協点はないのだ。
この問題は、堂々巡りが続く。